「酢堂は壁にかかった絵を語る」


 なんでそんなことを聞かれなくてはいけないのか分からない。自分のセンスを確認するためだろうか。じゃぁ、何でまたよりにもよって、この場面で聞く必要があるのだろう。辛い現実を自己の美点を他者から指摘させることで、緩和しようという浅ましい発想だろうか。酢堂の考えは俺にはよく分からない。いっそこんな絵画を飾っているなんてセンスがないよと言ってやって、更にこいつを絶望の淵に突き落としてやった方が良いのかもしれない。
 しかしながら、視界の端に壁にかけられた絵が一瞬でも入ってしまえば、そんな欺瞞の言葉は出せなくなった。芸術的な知識を持ち合わせていない俺ではあったが、何故だか俺は酢堂が選んだその絵画に、並々ならぬ芸術性とでもいうのであろうか、神々しさにも似た妙な気持ちを感じていた。有り体に言ってしまえば、その絵が気に入った、その絵の作者の作風が気に入ったということなのだろう。特に酢堂の仕事机と対面するように、ソファーの後ろに飾られた愛しい人というタイトルの絵を見れば、なんとも言い難いむず痒さを感じずにはいられなかった。愛しい人というタイトルに込められた言霊と不明瞭な書き味が、俺の体の見えない器官に何かを訴えかけるのだ。
 良いと思うがな、俺は好きだぜ、この作者の絵は。俺は初めて酢堂に対してまともな言葉をかけた。はたして酢堂は俯いたままだったが、気のせいだろうか静かに彼は何かに驚いている様子だった。俺が素直に彼のセンスを認めたことが意外だったのだろうか。それとも、自分が好きだと思うものを好きといわれたことが嬉しかったのだろうか。そういえば、砂糖女史に気に入られた時もそんな感じだったっけか。佐東匡の小説を偶々俺が電車で読んでいて、それを目にした彼女に声をかけられた。その時も、こんな感じに、佐東匡についての意見を求められたような、そんな気がする。やれやれ、どうしてこうも高貴な出自の奴等というのは、自分の趣味に関する話を好んでしたがるのだろうかね。あるいは、酢堂が佐東匡のファンだったなら、同じく彼のファンである彼女とも仲良くなれたかもしれないのにな、と、俺は右斜めの壁に飾られている少女の霞がかった笑顔を眺めながら残念に思った。
 お前が見ているその絵は、この絵の作者がある女性のことを思って描いた作品だ。突然、呟くように酢堂は言った。そりゃ分かるよ、愛しい人だからなと俺が言うと、そういう意味ではないと彼は短く傲慢な口調で、俺の言葉を否定した。じゃぁどういう意味なんだよと俺が声を荒げる前に、酢堂は振り返り絵を見上げると、静かな口調で語り始めた。この絵の作者は、この時このモデルとなった人物に出会っていない。いや、そもそも彼は彼女を描こうと思ってこの絵を描いていないんだ。この時の彼の頭の中にあったのは、漠然として形容しがたい行間に含まれる空気であって、それを掬い上げた結果がこうして女の絵になった。絵のモデルと言えばいいのだろうか、描かれた女性は小説家で、これを描いた男は彼女の小説を読み、その小説の空気から彼女の姿を想像して描いた。だからこの女性の輪郭はボヤけているんだ。
 高尚な薀蓄をどうもである。なるほど、つまり作者は彼女の内面を垣間見て、この絵を描いたと言う訳ねと俺が言うと、酢堂はあぁと小さく頷いた。