「味噌舐め星人の伝法」


 その後となっては、もはや店長と俺との間に会話は成立しなかった。無言の時間が、無情に、無機質に、無駄に過ぎていった。ふと、時計を見て時間を確認した。俺は出勤時間が迫ってますからと、店長に告げて畑を後にすることにした。こちらを振り向かないで頷き、物悲しい背中で肯定する店長。なんでそんな顔をするんだよ、店長のくせにと、俺は奥歯を噛み締めた。
 見える物、聞こえる物、匂う物、すべてがすべて不愉快で、無性に落ち着かない。何にそんなに怒っているのだろうか。店長が店長だからだろうか。店長があんなに生き甲斐に感じている畑仕事を放り出して、コンビニを経営しているからだろうか。何を怒ることがあるんだ、立派なことじゃないか。儲からないから、儲かる仕事をする。人間は何も理想に生きる訳じゃない。思ったように生きる訳じゃない。ただ、水面に漂う落ち葉のように、社会という湖面の上を、風に揺られて漂うだけだ。風に逆らうことは、できない。ただ人間は落ち葉と違って、手があり、足がある。ほんの少しそれを使って軌道を修正することで、目的の場所へと向かうことができる。器用に目的の場所へと向かう落ち葉も居るが、多くは湖の畔に十把一絡げに集まり、力なく浮かぶことになる。ともすれば沈みもする。結局、そんな物なのだ。そんな事はとうの昔に理解していたし、納得していたはずだった、了解しているはずだった。なのに、なぜ、俺はこんなにも苛立っているのだろうか。
 昨日銭湯が開くのを待った公園についた。時間はまだ九時を回った所。銭湯が営業を開始するには、充分過ぎるほどの時間があった。よくよく考えると、今日のシフト的に、銭湯が開くまで待っている時間はない。銭湯の入り口に暖簾が係るより前に、俺はコンビニのレジに入らなければいけない。やれやれ、どうしたものだろうか。なんと言ってもここいらは、分かりやすい程の田舎である、コインシャワーなんてどこにもない。ネットカフェはあったが、終電を乗り過ごしたサラリーマン向けに、シャワーサービスを提供しているような店舗もまだ無かった。無駄に多い、色鮮やかなホテルに入れば飽きるほどに浴びれるだろうが、家を突然に妹たちに占拠され、要る物もとらず追い出された俺に、ホテルに入るお金は無かった。まだ、服も買わなくてはいけない。いや、単に、一人でホテルに入りたくないだけなのだが。
 ふと、その時、ズボンのポケットの携帯電話が鳴った。股の辺りで忙しく震えるそれを、引っ張り出して確認すると、醤油呑み星人からであった。こんな時間になんだろうか。昨日の店長とのやりとりに対する愚痴だろうか。もしそうだとしたら、なんとも間の良いことだろう。朝からあの女の無駄に高圧的で無駄に甲高い声を聞きたくなかったが、無視すれば無視したで、この後の仕事で五月蝿く言われるに違いない。しかたなく、俺は通話ボタンを押下した。おう、どうしたよ、こんな朝っぱらからいったい何の用だ。
 あっ、あっ、お兄さんですか、ちゃんと起きてましたか。おはようございます、ちゃんと朝ご飯は食べましたか、お味噌汁は飲みましたか。ダメですよ、ちゃんとお味噌汁は飲まなくっちゃ。醤油呑み星人にしては、無駄に元気で無邪気な声が、携帯電話のスピーカーから聞こえてきて俺は驚いた。