応募原稿『タイトル未定』20ページ


「ねぇ、東くん。貴方本当の本当に、変な薬を飲んだとかじゃないのよね」「飲んでないと思う、たぶん。もしかしたら気づかずに飲んだかもしれないけれど、自分が気づく範囲では変な物も食べてないし、飲んでもいないよ」
 そうよねぇ、と、櫛田さんはため息混じりに呟いた。どうやら、彼女の読んだ本の透明人間も、薬を飲んで透明になるらしい。僕が読んだ本にも、人を透明にする不思議な薬が出てきた。インド由来の不思議な薬で、飲めばたちまち体が水晶質になり、透けて人から見えなくなってしまう。という。
「だいたい、得体の知れない怪しい薬って、ノックスの十戒じゃないんだから、そんなの出したら反則よ。分かりっこないわ。あぁあぁ、とっても便利な言葉よね、謎の薬って。その一言で現実に起きやしない不思議な出来事も全部証明できちゃうんだから。それならそれで、こんな時のためにも、透明人間を治す薬も、ちゃんと小説の中で作っておいてもらいたいものだわ」
 彼女の言うノックスの十戒というものが、はたしてどういうものかは僕は知らないが、とにかく、不思議な薬を飲んで透明になったでは、色々な意味でお話になりやしなかった。こうして、彼女と僕が、透明人間が出てくる小説にかけた一縷の望みは、見事に裏切られた。分かったのは、事実というものが小説が参考にならないほどに奇妙奇天烈な物である、ということだけ。
 これからいったいどうしようか。小説に出てくる、そのインド製のモノケインという薬品を、実際に薬局なんかを探して回ろうか。わざわざ回るまでもなく、売っているわけがない。それならば実際にインドに行って、現地の人に聞いてみようか。聞かなくたって分かる、売っているわけがない。科学的に設定を詰めた所で、結局は、フィクションはフィクションでしかない。
 どちらともなくため息をついた。閉塞感と共に空っ風が吹いた。つい最近去ったばかりの冬が、戻ってきたような寒さに、寒がりの僕は料理人に捕まえられたうなぎのように体を振るわせる。そんな僕を見かねてか、もう少ししたら家だから、中でお茶でも飲んでいかないと、櫛田さんが聞いた。
 彼女の家は、昭和の匂い漂う小さな一軒家で、木造の平屋建てだった。擦りガラスのはめ込まれた玄関のドアを横に開くと、打ちっ放しコンクリートな床がお出迎えしてくれる。玄関先に置かれている靴はない。と、いうことは、今この家には、僕と彼女しか居ないということだろうか。いけないことだとは分かっているのだが、どうにも、いけない妄想が止まらなくなってしまった僕。どうしたのよ、そんなそわそわした顔なんかしてと、櫛田さんが訝しそうな顔をしながら声をかけて、やっと僕は正気に戻ることができた。
「そこで座って待ってて、すぐにお茶とお菓子を持ってくるから。テレビはつけてて構わないよ。リモコンはたぶんちゃぶ台の下に転がっているわ」
 漫画の中でしか見たことないような、見事に円いちゃぶ台の前に僕は腰を下ろす。僕が座ったのを見届けると、櫛田さんは襖の向こうの台所に消えていった。勝手分からぬ他人の家に招かれたことは初めてな僕は、どうしていいかわからずたまらず視線を落とした。ちゃぶ台の下には、確かに古めかしい赤外線ライトがむき出しのリモコンが転がっている。ふと視線をあげると正面に座しているテレビは、いったい何年前の物だろうか。やたらと奥行きのあるそれは、ここ最近見かけなくなった、ブラウン管テレビだった。