応募原稿『タイトル未定』17,18ページ


 まだなんとか元の色を保っている階段を降りながら、僕はケータイを開くとメールが来ていないか確認した。しかしトップ画面に新着情報の文字は表示されておらず、メールボックスの一番上に表示されているのは、昨日の夜と変わらず櫛田さんからのメールだった。僕は、そのメールを開いて、櫛田さんから送られてきたメールの中からいくつかの単語を拾ってを読む。放課後、校門、忘れないでね。そういう君が僕のことを忘れちゃったんじゃないか。このまま、プールとグラウンドを横切り、裏門から帰ってしまおうか。
 僕の手が突然震えた。僕の手が突然歌った。僕の手が突然光った。ケータイが着信。いったい誰から。液晶に浮かびあがった名前は、櫛田都子。
「ちょっと、東くん。どこをふらついてるのよ、皆に姿が見えないからって授業さぼるのはあなたの勝手だけれど、女の子との約束までさぼるのはどうかと思うわ。五分以内に校門に来て、でないと昨日の今日だけど絶交よ」
「……え、えっ、く、櫛田さん。えっ、もしかして、今、校門にいるの」
「当り前じゃない、忘れないでよねって電話で言ったでしょう。そのあと、メールで釘まで指しておいたのに。もうっ、辛いのは分かるけれどね、もうちょっとしゃんとしなさいよ。いじけたり、寂しそうにしてみせたりしたって、神様も人様も貴方のことなんて見てないんだから。するだけ無駄よ」
 誰のせいで僕がいじけたと思っているんだよ。君が僕のこと無視したからじゃないか。もう、なんて勝手な言いぐさなんだろうか。しかし、いじけたところでどうにもならない、というのは確かに正論だ。ぐじぐじといつまでも悩んでるよりは、背筋を伸ばして思いきって何か行動するべきだ。櫛田さんに無視されたなら、なんで無視したのかメールで聞けばよかったのだ。それだけじゃないか。何を悲劇の主人公を気取っているんだ、僕って奴は。
 階段を急いで駆け降りると、まだ授業が行われている三年制の教室の横をつっきる。周りに気づかれないよう、声を潜ませて僕は櫛田さんに聞いた。
「く、櫛田さん。け、今朝、な、なんだけど、僕が声かけたとき無視したよね。あ、あれ、その、あれっていったいどうしてなのか、教えてくれない」
「あのねぇ東くん。あんな往来で、あぁ、東くんおはよう、今日も良い天気ね。いつもの友達が周りにいないのを見ると、まだ透明なんだ。けど安心して、私がついているわ。二人で力を合わせて元に戻る方法を考えましょう、なんて、何も見えない方を向いて言ったら、どうなるか分かるでしょう」
 それは、確かに、言われてみれば。そんな姿を晒せば、変人扱いされるのは目に見えていた。そうか、だから櫛田さんは、一度振り返って僕の方を向いて、それから何事もなかったかのように首を元に戻したんだ。
「じゃ、じゃぁ。僕のことが嫌いになって無視したとか、僕のことが見えなくなって気づかなかったとか、そういうんじゃないんだね。違うんだね」
「そうよ、あと一分ちょっとで貴方のこと嫌いになるところだけどね」
 よかった、と思わず言葉が漏れた。なにが、とケータイから声がした。
「櫛田さんにも、僕のこと見えなくなっちゃったのかと思って。もし本当にそうだとしたら、僕、僕、どうしたら良いんだろうって、そう思って……」
「なに、もしかして、学校さぼったのって、そんな理由だったりするの」
 呆れたとばかりの溜息が受話器と前方の校門の影から聞こえてきた。
「……ジャスト五分。残念ながら、今から私と貴方は赤の他人です。と、言いたい所だけど、私も悪かったからペナルティでプラス五秒してあげるわ」
 決まりが悪そうに視線を逸して櫛田さんはそう言うと、ほら、早く行くわよ、ぐずぐずしてると図書館の閉館時間になっちゃうじゃないと、僕に背中を向けた。素直にごめんなさいと言ってくれれば良いのに。本当に素直じゃない。まぁ元はといえば、勝手に悪い方に考えたのは僕なのだが。
 なにしてるの、早く行くわよって言ってるじゃないと、彼女は強引に僕の手を握ると、引っ張って歩きはじめる。透明人間の手なんか握って、こんなところ誰かに見られたら、それこそ変人と思われるんじゃないのか。道ゆくひとに気付かれぬよう声を押し殺して、僕が彼女にそっと尋ねた。すると、彼女は僕の方を振り返りもせず、下校時刻はとっくに過ぎてるからそんなに人はいない、だから大丈夫となぜか顔を赤くして櫛田さんは答えた。
「ほっとくと、貴方、また勝手に勘違いして、拗ねて、どこかに消えちゃうでしょう。姿が見えないのに、これ以上どこに消えるっていうのよ。まったく、もう少し自分に自信を持って、男らしく堂々としてなさいよ」
 僕の手を力強く櫛田さんが握り返した。そうだね、と、僕はまた周りに聞こえないよう小さな声で答えた。どうして彼女は僕と違って、こんなに堂々としていられるのだろうか。勉強ができるからだろうか。顔が可愛いからだろうか。もともとそういう性格だからだろうか。それ以外、それともそれら全てが組み合わさって彼女をそう思わせるのだろうか。僕にも櫛田さんのように、胸を張れる何かがあれば、堂々と生きることができるのだろうか。
「ほらぁ、またそんな辛気くさい顔をして。そんなに深く考えちゃ駄目よ、世の中で考えてどうにかなることなんて、算数のテストくらいなんだから」
「算数以外にも、もっと色々あるでしょ。というか、そんなこと言ったら、今から図書館行くのも、無駄って言っているようなものじゃ」
「だからぁ、そうやってうじうじうじうじ考えてるだけなのが駄目なのよ。考えたら次は行動にでなくっちゃ。世の中は、算数みたいに分かりやすい答えは用意されていないんだよ。考えてした行動が、まったく違う結果に継ったり、よく分からずにやったことが、大成功につながったりするんだから」
 さっきから、痛いくらいに櫛田さんの手が僕の手を締めつけてくる。怒っているのだろうか。いや、そういう風には思えない。じゃぁ、からかっているのだろうか。そういう風にも思えない。おそらくだけれど、櫛田さんは、ただただ、本気で僕に向かい合ってくれている、それだけなのだろう。
 行動に移すか。誰よりも勉強している感じの櫛田さんがいうと、なんだか不思議な感じではある。いや、きっと彼女にとって勉強という行為もまた、行動の一つという認識なのだ。本当の彼女は、誰よりも行動的で、誰よりも考えないのかもしれない。そうだ、世の中に、答えなんてないんだ。そんなものに、わざわざ気を使う必要なんてない。たとえどんなに絶望的な状況でも、行動に出ればきっと何かは変わるのだ。現に僕は今、憧れだった櫛田さんの手をこうして握っている。行動したことで、僕は確かに変わったのだ。
「それに、君が私に話しかけたから、今、私は君の手を握ってるんだよ」
 相変わらず彼女は僕の方を振り返らない。その頬は少しだけ紅く見えた。