「味噌舐め星人の献身」


 それから三時間ばかり、俺は佐東匡の「熱帯魚たち」を読みふけった。ほどよく辺りが明るんできたのを見計らいスタンドライトを消し、グラスの水がなくなると台所に行って水を汲み、喉に溜まった痰をのティッシュに吐き出し、また本を読む。そんな風にして、明朝にかけての三時間はあっという間に過ぎていった。あっという間に、普段起きるには少し早い六時になった。
 一度と言わず何度も読んだ本である。内容はほとんど覚えていたし、病気で朦朧とした意識の中で楽しむには活字は少し体力が要った。なので、その頃になるともうすっかりと読むペースも遅くなっていて、ページ数は残りもう僅かという所だったが、俺はとてもそれ以上読み進める気にはなれず、本を閉じて枕元に置いた。書物から眼を離すと、途端に眼球が眼窪に沈み込んでくるように痛みはじめる。俺は瞼に軽く手を載せると、眼球を転がした。
 味噌舐め星人は時々もそもそと体を揺らし寝返りを打った。彼女の顔はその三時間の間に激しく左右に振れたが、どちらを向いても幸せそうに笑っているように俺には見えた。よっぽど楽しい夢を見ているのか、よっぽどそういう性格なのだろう。彼女らしくもあるし、微笑ましくもあるなと思った。そんな彼女が寝返りをうつのを止めて、まっすぐ天井を向いて目覚めたのは、壁にかけた時計と分針が逆レの字になった頃合だった。十一時。俺はその頃にはすっかりと活字を追うのを止めて、漫画を読んでいた。「熱帯魚たち」を本棚に戻し、代わりにあらゐけいいち「日常」を全巻引き抜いてきて、枕元に置いて一巻から読んだ。「日常」は、超現実的な内容でありながら、実に人を疲れさせない絵柄で描かれており、病んだ俺の脳にもすんなりと入り込んできた。気持ちよく俺の視覚から脳内の間を疾駆した。なので、味噌舐め星人が布団から這い出してきた頃には、「日常」は既に五巻目に突入していて、開いているページには桜井先生の卒業時の写真が描かれていた。
 何を笑ってるんですか。何を読んでるんですか、駄目ですよ、お病気なのにご本なんて読んでいたら。ちゃんとお布団の中で寝ててください。どうしてもお兄さんがそのご本を読みたいなら、私が読みあげますから。さぁさぁ、その本を貸してください。大丈夫だよ、本を見るくらいと俺は味噌舐め星人の伸ばした手を軽く払った。駄目です、病人は病人らしくしてくださいと、いつもの調子で味噌舐め星人は俺に食いかかってきた。そうして、俺の手から「日常」の五巻をすばやく取り上げると、つたない感じに噴出しの中の台詞を読み上げ始めた。はたして、噴出しの中の台詞を読み上げられたところで、人が漫画を楽しめるわけがなかった。漫画は漫画だ、小説ではないのだ。
 やれやれとため息をついて、俺はこっそりと四巻に手を伸ばした。漫画を読むことと、漫画を読み上げることに夢中の味噌舐め星人は、病気なのに本を読もうとする俺に気づいていないようだった。彼女は時々、ぷっと小さく吹き出しては、読み上げるのを止めてその肩を上下させた。よかったら読みなよと、俺が残りの「日常」を味噌舐め星人の前に置くと、彼女は漫画に目をやったまま、なにも言わずにただこくりこくりと何度も頷いた。ふと目に入った彼女の瞼の下には、昨日はなかったどす黒い隈が出来上がっていた。