「味噌舐め星人の寝言」


 それから再び眠る気にはとてもなれず、俺は布団から出ると本棚にあった手ごろな文庫とスタンドライトを持ってくると、枕元に置いた。そして台所に行って蛇口を捻ると、カルキのたまった水道水を青色をした分厚いグラスに注ぎ、飲んだ。体は水分を欲していた、一杯水を飲んだくらいでは満たされない程に、喉は渇きに喘いでいた。俺はもう一度蛇口を捻りグラスに水を満たすと、半分ほど飲み、残りを捨て、またグラスに水を注ぐ。そうして八分目まで満たされたグラスを持って、俺は布団に戻りスタンドを灯した。
 作家、佐東匡が得意とするジャンルは恋愛小説だった。いや、世間の知名度や本の売れ行きを考えると、それはお世辞にも得意と評価できるものではないだろう。しかしながら、彼の書く小説の多くが、男女を限定しない恋愛を描いたものであるのは統計的な事実である。今、手に取っている彼の処女作「熱帯魚たち」は、個人的には俺はあまり好きではなかったが、世間一般的には彼の代表作として認知されていた。もっとも、世の読者、とりわけ女性に評価されたのは、作品で扱われたテーマであった。残念なことに、彼の持つ独特の、まるで色あせた写真のように虚飾のない、かといって抽象化されたわけでもない、どこか退廃的なうら寂しさを抱かせる作風ではなかった。
 熱帯魚たちは同性愛をテーマとした小説である。主人公は幼馴染の青年が自己の内側に存在する性的な葛藤に苦しみ、その精神が、その外見が、徐々に女性のそれへと変遷していく様を、冷淡かつ残酷なまでに現実的な視線で描写している。主人公の中には友人への恋愛感情は存在しない。しかし、彼の変化を許容する確かな友情を持っている。また自身も後天的で精神的な性の不能を抱えており、友人の性的な葛藤に対してある種の共感を持っていた。結局のところ、友人は男として春を売ることになるのだ。マイノリティな自分の存在価値を、拠り所を、倒錯した性の場に求めた彼は、まるで多くの女子校生がそうするように、欲望にまみれた力ある男たちに、時に女たちに、その体と精神と穴を弄ばれる。そうして彼は痛みと快感の中に確かに、不確かな自分の性の輪郭を捉えようとするのだが、同時に彼の中にある男が断末魔を叫び、暴れ、彼の精神を内側から陵辱していく。結局、彼は男の部分を捨て切れず、主人公に助けを求める。こんなどうしようもない小説だから、結末なぞ特に語る必要もない。大方の読者が望むような結末を彼らは向かえ、主人公は途方もない悲しみと苦しみの渦中に、その身を置くことになる。
 たまたま開いたページは、ちょうど主人公が友人の陰茎を愛撫する場面であった。男の俺にもその場面はちょっと刺激が強かった。ちょっと過激な表現過ぎた。頭の中で組み上げられたそのなまめかしい描写は、先ほどの夢の中で見た味噌舐め星人と塩吹きババアの姿とだぶついて俺には感じられた。
 うぅん、眩しいです、朝ですか、もう朝ですか、それにしては寒いです。俺の隣に寝ていた味噌舐め星人が、ふるふると羽織っている布団を震わせながら、誰に聞かせるでもなく言った。味噌舐め星人が眩しくないようにと、俺の体が光を遮るようスタンドを置いたが、たいして効果はなかったらしい。まだ朝じゃないからもう暫く寝ていなと、俺はぐずる彼女の頭を撫でた。