「塩吹きババアは、帰ってこなかった」


 映画が終わるころには、NHK教育番組でアニメが始まる頃合になっていた。味噌舐め星人は俺の病気のことなど忘れた感じで、物音に驚いて飛びのく猫のようにリモコンを手に取ると、テレビに向かってバーンという掛け声と共にボタンを押した。切り替わったチャンネルでは、よく子供のころに見た、猫たちが経営するレストランの話が流れていた。この番組もずいぶん長いことやっているなぁと、少し懐かしくなった俺は、隣でご機嫌に鼻歌なんかを歌っている味噌舐め星人と一緒に、しばらくその番組を眺めていた。
 味噌舐め星人はことのほか主人公である黄色い猫がお気に入りのようで、あの黄色い猫さん可愛らしいですね、あんな猫さん欲しいですねと、何度か俺に言った。その猫が可愛らしいことには同意したが、猫なんて飼いだしたらいつぞやのように、ねこまんまを巡って彼女と猫の間で憐れな争奪戦が起こりかねない。それにここはアパートである、大家さんは例外的に猫を飼っているが、基本的にペットの類を飼うのは禁止だった。可愛いが、飼うって言うのは現実的じゃないね、俺はそうつぶやいた。なに言ってるんですか、ちょっと言ってみただけですよと、味噌舐め星人は少し驚いた顔を俺に向けた。そして、じろじろと怪しむような視線でこちらの様子を伺うと、その白くて小さい手のひらを、髪を除けて俺の額に張るようにして押し当てた。
 それは濡れタオルのように、ひんやりと心地よく感じられ、どうやら扁桃腺の症状が再び首をもたげ始めていることに俺は気づいた。夕方、日が暮れ始めるころからが、この病気が本当に苦しい時間帯だ。ちょっとお熱がまた出てきましたね、お兄さん。無茶しちゃ駄目ですよ、お兄さん。大人しくおねんねしていてください、お兄さん。味噌舐め星人はそう言うと、乱れていた分厚い布団と毛布を整えて、俺の体の上にかけた。ありがとうよと、俺は彼女の警告に従って布団の中で丸くなった。団子虫のように丸くなった。
 やがて徐々に俺の体は火照りはじめ、頭が何者かに殴られているように痛み始めた。息遣いが荒くなり、ねっとりとした鼻水によって鼻は詰まった。それでも瞼は重たくて、俺はずっと目を瞑っていた。そして、その暗闇に閉ざされた視界の先に、隔絶された精神の世界を、夢とも正気とも分からない何か歪な心情風景を見据えていた。俺と味噌舐め星人と塩吹きババアがそこには居た。二人はまったく同じ色をした服を着ていたが、それが白色なのか黒色なのか俺には判別がつけられなかった。味噌舐め星人は黒い服を着ていたように思うし、塩吹きババアはいつも白かったように思う。そんなコントラストが壊れた世界で、二人は何を思ったか唐突に服を脱ぎ始めた。白いブラウスを脱ぎ、白いワンピースを脱ぎ、白いショーツを脱ぐ。黒いタートルネックを脱ぎ、黒いチノパンを脱ぎ、黒いショーツを脱ぐ。とうとう二人は裸になった。一糸纏わぬ姿となった彼女たちを、俺はなんだか非常に良く似ていると感じた。その乳房の膨らみ具合や、腰のくびれのライン、三角地帯に薄っすらと生えそろった陰毛、そして宝石のように光を放つ円らな瞳。
 この世界のコントラストは壊れていた。しかしそうでなくても、俺には味噌舐め星人と塩吹きババアを見分けることはできない。唐突に、そう思った。
 お兄ちゃん、と、味噌舐め星人と塩吹きババアのどちらかが言ったように思った。けれども、それは俺が知っている彼女たちの声とは、似ても似つかないものでもあった。それは少女の声だったし、それはか弱い声だったし、それは無邪気な声だった。あるいはここには居ないミリンちゃんが言ったような、そんな声だった。お兄ちゃんと、また誰かが言った。誰だよ、と俺は裸の味噌舐め星人たちから顔をそらすと、上を向いて大声で叫んだ。どこまでも真っ白な天に向かって尋ねた。途端、世界のコントラストは正常を取り戻す。味噌舐め星人と塩吹きババアが笑う。二人が二人だと分からなくなる、二人が一人ずつ居るのか、一人が二人居るのか分からなくなる。正常なコントラストを取り戻した世界で、俺は正常にコントラストを捉えられなくなっていた。彼女たちの脱いだ服は識別できるのに、彼女たちを識別することができない。彼女たちを見分けることができない、どちらが味噌舐め星人でどちらが塩吹きババアか、判別できない、認識できない、認知できない。思ったとおりだ、俺は今すぐにも叫びたい気持ちだった。けれども、コントラストが正常に戻った代わりとばかりに、俺の喉は綿が詰められたように、鉄でも流し込まれたように、土で埋められたように、空気を発しなくなってしまった、音を出せなくなってしまった、言葉を発せられなくなってしまった。
 そしてまた、俺の耳に聞こえてくる、お兄ちゃんと、俺を呼ぶ声。いったい誰が俺を呼んでいるのだろうか。どこから俺を呼んでいるのだろうか。なぜ俺を呼んでいるのだろうか。本当にその声は俺を呼んでいるのだろうか。
 ふと、味噌舐め星人が俺の体に擦り寄った。子猫のように足元に体をこすり付けて、太ももに舌を這わせて、むき出しになりそそり立った陰茎の横を素通りして、臍に接吻して、乳首に歯をこすりつけて。そして、とうとう塩吹きババアの鼻先が俺の鼻先とくっついた。じらす様に、俺の眼前で味噌舐め星人はその妖艶なピンク色の舌を、上唇と下唇を割るようにして口内から出すと、舌に絡まった粘質な唾液を使い、唇をゆっくりと湿らせていく。
 次の瞬間、塩吹きババアの唇が俺の視界を覆った。眼球をナメクジのように這う生暖かい感触。まだ見える片方の瞳が、塩吹きババアの白い頬を捉えていたが、すぐにそれも彼女の唇にさえぎられた。どうしてか、俺の視覚はそれっきり失われてしまった。まるで、彼女に眼球を食べられてしまったかのように、俺は何も見えなくなった。換わりに俺の喉が鳴り、口内のピンク色のナメクジがつがいを求めて震えた。すぐにつがいが口の中に割り入り、俺の舌と絡み合い、擦りあって熱っぽい交尾を始めた。口内に満ちる、果実のような甘ったるい香り。狂いそうな熱に口内が満ちていくのを感じながら、俺はふと陰茎を何かが這う感触を覚えた。それは乱暴に俺の男の周りを這いずりまわると、やがて敏感な傘の裏を執拗に舐めはじめた。そして、最後には、俺の陰茎を銜え、絡みついた。今、口と陰茎の先から、俺の体は快楽の中に飲み込まれようとしていた。俺の体は熱に飲み込まれようとしていた。
 熱にうなされて、眼を覚ますと隣の布団に味噌舐め星人が寝ていた。見上げると、壁の時計は午前三時を指していた。ふと俺はあたりを見回したが、塩吹きババアが居る気配は感じられなかった。なぜだろうか、その時、俺は塩吹きババアがもう帰ってこないのではないかと、そんなことを思った。