「店長、出勤を禁止する」


 再び俺が目を醒ましたのは十時を過ぎた頃だった。隣を見ても天井を見ても、俺の腕を抱きしめていた塩吹きババアの姿はなく、もう反対側には味噌舐め星人がだらしなく涎を枕に滴らせて、心地良さそうに寝息を立てていた。
 上体を起すと身体の容態は随分と楽になっていた。熱も引いて、頭も幾分ましに動くようになっている。部屋で生活するくらいならばなんの問題も無いだろう。とはいえ、バイトができる程度に回復しているかといえば、いつ熱がまたぶり返さないとも言えないので、少々怪しい。そう、問題はバイトである。はたして店長は無事に俺の不在を補って店を回す事ができたのか。
 俺はズボンのポケットの中から携帯電話を取り出すと、履歴から店長の電話番号を探し出して彼に電話をかけた。電話はいつになく長い間呼び出し音を鳴らし続け、メッセージセンターに切り替わる寸前で、はいはいはいと聞きなれた店長のまぬけな声に変わった。はい、こちら店長ですよ。大丈夫かい君、妹さんから聞いたよ熱出して倒れたんだって。不摂生してるから風邪になんてなるんだよ。ちゃんと掃除とか洗濯とか自炊をして、よく寝なくっちゃし駄目だよ。アンタに気をもまれるほどの不摂生はしていないよと、俺はすぐに言い返した。しかし、どうにも店長の声が上機嫌なのは何故なのだろうか。何か良い事でもあったのかと俺が聞くと、店長はまるでド○えもんの様にうふふふと笑い、確かに良い事はあったけど、秘密だよ、横取りされたくないからねと意味深な事を言った。大方、また好みのタイプの女性でも店に訪れたのだろう。徳利さんとの一件で、彼の彼女への感情を考えて、すくなからず引け目を感じていたのが、急に俺には馬鹿馬鹿しく思えてきた。
 それで、昨日は俺が居なくて何とかなったんですか。うん、何とかなったよ、凄い助っ人が来てくれたからね、バッチリだった。と、店長は言った。助っ人で俺以上に仕事ができる助っ人というと、おそらく社員の人でも呼んだのだろうと、俺は思った。その人ね、今日も君とA子ちゃんの代わりにお店に入ってくれるそうだから、安心して今日は君は寝てくれてていいよ。というか寝ててちょうだいお願いだから。どうやら彼のご機嫌が良いのは、その助っ人のおかげらしい。まぁ、実際の所、バイトに行った所でいつまた熱が上がり始めて倒れるとも分からない。また、今日のシフトは夜勤であり、深夜から朝にかけて熱が上昇する扁桃腺という病気からして、鬼門でもあった。じゃぁ、お言葉に甘えて休ませていただきますと俺が言うと、うんうんそうしなよ、明々後日からまたよろしくねと店長は元気に返事をした。あぁ、そうそう、料理とか作るの大変でしょう。後でコンビニのお弁当持って行ってあげるよ。流石にそこまでしてもらうのは気が引けた、というかあんまりに店長が俺に優しくするので気色悪くなった俺は、いや良いですよとすぐにも店長の申し出を断った。しかし、いいからいいからと、店長は強引に話を押し切ると、昼過ぎに俺の家に来る約束を取り付けて、電話を切った。
 やれやれ、いったいどういう風の吹き回しなんだろう。店長が俺に優しくする理由がいっこうに思いつかない俺は、軽い寒気のようなものを感じた。それは扁桃腺の症状かも知れないが、少なくとも俺は店長のせいだと感じた。