「足の裏のたたみさん(短期連載)」


 その日、俺ははじめて彼女の下宿先の部屋に入れてもらった。恥かしがり屋で奥手な彼女をその気にさせるのには、俺の口下手も相俟って、一年と随分と時間がかかってしまったが、その割りに彼女のアパートはどこにでもありそうな、ありふれた、ちょっと昭和の匂いがする木造二階建てだった。
 ごめんね、ちょっと散らかっているかもと謝って、彼女は部屋のドアを引いた。お洒落盛りの大学生にしては珍しく、前髪をパッツンに揃え、黒い直毛をこれまたすだれの様に後で切りそろえた彼女は、俺の中ではしっかり者のイメージが強い。試験があるたびにヤマを張ってもらったり、失念していたサークル活動のミーティングを知らせてもらう。そんな事が積もり積もって、今ではすっかりと尻に敷かれてしまい、あげように頭の上げれない。そんな彼女が、まさかこんな猥雑とした部屋に暮らして居ようとは。いくら散らかっているとはいえ雑誌や化粧品が机の上に放り出してあるくらいだろう、という俺の想像を遥かに上回り、彼女の部屋は畳一畳を残して後の見える範囲は全て、本や新聞やプリントや衣服や布団やらで埋め尽くされていた。
 ねっ、だから散らかってるって言ったでしょう。彼女がちょっと怯えるような表情で俺を見てきたので、咄嗟に俺はそんな事はないよと言ってしまった。本当はそんな事はあるよ。俺の部屋だってこんなに酷い事態にはなっていない。少なくとも、畳二畳分くらいは何も置いてないスペースがある。
 とりあえず立っているのもなんなので座ろうかと彼女が言った。そうだねと、随分遠い所にある畳を見て、俺はどうやってそこまでたどり着こうか算段を立てる。とりあえず、靴を脱ぐために手を自由にしたほうがいい。手に持つ鞄の中には、今日は割れ物は入っていなかったので、俺はちょっとごめんねと彼女に断って、それを本の山の中にぽっかりと開けた平地である、畳の上にめがけて投げた。放物線を描いた鞄は、ちょうど畳の真ん中に落ちる。
 な、な、なにするの。ちょっと、たたみさんに傷がついたらどうしてくれるのよ。いきなり彼女が今まで見せた事のない顔をしてキレた。温厚な彼女がキレる姿を、キレた顔を初めて見る俺は、始めて彼女の部屋を見たときよりもびっくりしてしまった。まさかこんな風に彼女に驚かされる日が来るなんて、そんな彼女も素敵だなぁなんて思っていると、彼女は靴を脱ぐのも忘れて床に上がると、山と積まれた本を崩さぬように器用に踏みつけて、俺の鞄が乗っている畳の前へと移動した。たたみさん大丈夫、怪我はなかった。あぁ、よかった心配したのよ。畳の前で本に膝をつき、彼女はどうにも俺が傷つけてしまったらしいそのたたみさんとやらに話しかけていた。どこをどう見ても、そこには畳しかなかったし、彼女の瞳も畳しか見ていなかった。
 たたみさんって、なに。俺が聞くと、たたみさんはたたみさんよと、彼女は言った。頭痛が痛くなるくらい、それは日本語としておかしな発言のように俺には思えたが、彼女の目はいたく真剣だった。たたみさんは畳の妖精よ。貴方には聞こえないの、たたみさんの声が、と、彼女は言った。うん、聞こえないとは流石に言えなくて、ごめん良く聞こえないんだ何て言っているのと、俺は彼女に聞いた。たたみさん、お前の事嫌いだって。目は真剣だった。