「予備校生はメイド喫茶のオーナー」


 オーナーと、メイドたちはその男の事を呼んだ。酢堂さんと、砂糖女史はその男の事を呼んだ。須藤か首藤か周藤か知らないが、どうにも鼻持ちならない感じの顔立ちをしているそいつを、素直に普通の名前でおぼえる気にもなれず、俺はとりあえず酢堂としてそいつの名前を覚える事にした。これで、下の名前が大雑だったらたいそう面白いのだが、どうにも孝也だとか彰だとかそんな名前なのだろう。外に出たらさぞ日光を吸収して温かいであろう、真っ黒のスーツをすらっと着こなす酢堂は、悔しいくらいに美男子だった。歳は俺と幾らも違わないだろう、たぶん俺より年上の様に彼は見えた。
 どうしたんですか雅さん。なんで貴方がこんな所に居るんです。磯山さんは、ご両親は、まさかお屋敷から一人で来たんですか。あぁ、なんて物騒な、外はお屋敷と違って危険な事で一杯だと言ったでしょう。なのになんで来たんですか。わざわざ会いに来なくても、私から会いに行くというのに。ほら、お前たち邪魔だ、道を開けろ、横にずれろ。オーナーの癖に微塵も客を敬う態度を見せず、酢堂はステージ前にたむろする客を押しのけると砂糖女史に迫った。メイドの後ろに隠れるように周った砂糖女史を、彼の手が捕まえた瞬間、端麗な砂糖女史の顔が一瞬だけ酷く陰りを帯びた。嫌悪でもなく、憎悪でもない、怯えのような表情だった。自意識過剰で嫌味たらしいよく喋る男に親しげに手をつかまれたのだ、その気持ちは分からないでもない。もっとも俺だったならば、あからさまに嫌悪と敵意をむき出しにしているだろうが。そこが味噌舐め星人と砂糖女史の持つ美徳というものだろう。
 どうにも二人は知り合いのようだった。そして、どうにも二人の関係にバランスはとれていないようだった。あからさまに酢堂と出会ったことに対して困った顔をする砂糖女史に対し、あからさまに砂糖女史と出会ったことに対して喜びを隠さない酢堂。酢堂から砂糖女史に伸びる一方通行の感情の線が、俺の眼にはくっきりと見てとれた。まぁ、砂糖女史くらいの美人なら、酢堂だけじゃなく男ならば誰だって、そうそう放っておかないだろう。酢堂の気持ちは同じ男として分からなくもなかったが、戸惑っている砂糖女史をまったく気にもかけず、まくし立て迫るデリカシーのなさは正直鼻についた。
 あの、そんな心配していただかなくても結構です。別にここまで来る間に危ない事もありませんでしたから。酢堂さんって、ここのお店のオーナーさんだったんですね。そうですか、私、ぜんぜん知りませんでした。砂糖女史は酢堂の手から自分の手を抜くと、酢堂から逃げるようにしてステージから降り、群がるご主人様の間を縫って俺の方へと向かってきた。行きましょう、と、彼女は俺に手を差し出して言った。どこへと、俺は彼女の意図が分からず逡巡したあげくそんな事を言った。そして、その一言を俺が喉から搾り出す間に、またしても客を乱暴に押しのけて、酢堂が砂糖女史の前に現れた。
 なんで逃げるんですか雅さん。酢堂は性懲りもなく砂糖女史の手を掴もうとした。嫌がってんだよ止めてやれって、と、思わず口が出た。厄介ごとには首を突っ込みたくなかったが、ついお節介の虫が騒いでしまった。君は誰だい、と、酢堂は俺に視線を向けた。まるで虫けらでも見るような眼だった。