「塩吹きババアは警告する」


 味噌舐め星人が俺の布団で寝てしまったので、俺はまた畳の上で雑魚寝していた。今日は昨日と違って畳と俺の間に座布団があるだけましだった。とても布団の代わりまでにはならないけれど、座る用途で使う布団だったけれども、布団と名がつくだけあって昨日よりは幾分か寝心地はよくなった。彼女と一緒の布団で寝てしまうのも良いかと思ったが、あんなものを見てしまった後ではどうにも意識しすぎてしまって、一緒に寝ることはできそうになかった。なにより、もし一緒に寝たとして味噌舐め星人が俺より先に起きたりしたらなにを言われるか分からない。なにをされるか分からない。今朝方の味噌舐め星人の寝ぼけ方を思い出し、俺はやっぱり彼女と同じ布団で寝ることをあきらめた。なんだかんだで、味噌舐め星人との生活になじみつつある自分が怖かった。まだ二日も一緒にいないというのに、なぜここまで彼女に親近感をもてるのか、ちょっと自分でも納得できない。それでも、フードから出ている彼女のゆるみきった白い顔と、闇の中でも黒光りする髪を見ていると、不思議と優しい気分になってしまうのだった。
 夜も半分も過ぎた辺りで、俺はふと物音に眼を覚ました。コンコンと、微かな音を立てて俺の部屋のドアが鳴っていた。気のせいかなと思っていると、次にドアノブが揺れるのが目に付いた。月明かりに照らされたドアノブは、カチャカチャと音を立てて揺れていた。誰かが外で、俺の部屋のドアノブを回している。季節外れに俺は背中にじっとりとした汗をかいていた。
 ドアノブを照らしていた光が消えた。俺が恐る恐る顔を上げると、窓に人影が映っていた。それは非常識に大きい影だったが、その形から女であることが分かった。末広がりになっている頭部の形状から、それが髪の長い女であることが分かった。その長髪は味噌舐め星人とは違いウェーブのかかった髪だった。そして、窓越しにもその色が異様な色をしているのが伺えた。それは月明かりを背にして、月光と同じ光を発していたのだ。うっすらとその輪郭だけがそこにはあった。トゥーンシェーディングの様に、その輪郭だけが窓の外の世界に浮遊していた。そして輪郭は俺に語りかけてきた。
「おいお前。お塩は要らんか、安くするぞ。美味いぞ、大変美味いぞ。私の塩はたいへん美味い。伯方の塩よりちょっとくらい美味いぞ。藻塩よりもミネラル豊富だぞ。さぁ買わないか。安くしておくぞ、百円くらいで瓶一杯ほど売ってやるぞ。お塩が欲しいだろう、欲しいんだろう?」
 なるほどどうやらまた頭のおかしな奴がやってきたらしい。俺は窓の向こうに居る奴が頭のおかしい奴だとわかると安心して再び座布団に頭を沈めた。
「おいこら、人の話は最後まで聞かんか。まったく、これだから最近の若い者はいかんな。最近の若い者はこれだからいかん。人の話は最後まで聞くべきだ。人の話は人の目を見て聞くべきだ。そう思わないか、若者?」
 俺は若者なんて名前じゃないのでそんな白い影の言う事など聞いちゃいなかった。べつに聞きたいとも思わなかったし、塩なんて欲しいとも思わなかった。だから俺は味噌舐め星人の可愛らしい寝顔を眼に焼き付けて、そのままちょっとした幸せの間に瞼を閉じようと、再び眠ってしまおうと思ったのだ。
「だから、人の話は最後まで聞けよと言っておるだろうが、若者。いいかげん、塩吹きかけるぞ。まぁ、ワシは人じゃなくて妖怪なんじゃけれどね」
 気づくと味噌舐め星人の顔があった方向に白い顔が現れていた。それは真っ白な顔だった、塩のような白さだった、けれども良く見ると小さな皺がところどころにあるのがわかった。なんというか、年増の肌である。味噌舐め星人のピチピチとした肌と比べると、桜色をしたその肌と比べると、目の前の白い女の肌は枯渇して塩の吹きだした地表の様に俺には思えた。
「若者。お前、今ワシの顔を見て失礼な事を思っただろう。なんと躾けのできていない奴じゃ。悔い改めよ悔い改めよ、ナンマイダーナンマイダー」
 そう言ってその女は俺に塩を吹きかけた。口からさらさらと塩を噴出して、俺に塩を吹きかけた。いったいどうやって口から塩なんてだすのかわからないが、それは確かに塩だった。毒霧の様な塩だった。しょっぱかった、そして彼女の言葉の通りそれは大変美味かった。塩だけでご飯が食べれるような気がした。塩おにぎりを唐突に作りたくなる衝動に駆られた。とにかく訳が分からなかった。それは味噌舐め星人に遭遇した時よりも数倍に訳の分からない遭遇だった。なにより、なぜ妖怪にナンマイダーと唱えられて清めの塩をかけられなくてはいけないのか。宇宙人が味噌を舐める事よりも、それは理不尽な設定なんじゃないかと俺は思った。あまりに腹が立ったので、俺はその女を塩吹きババアと呼ぶ事にした。ようこそ塩吹きババア、さようなら塩吹きババア。俺は塩吹きババアを無視して、夢の世界に逃げる事にしたのだが、潮吹きババアはそれを許してくれなかった。幽霊の癖に、俺に掴みかかると、塩吹きババアは俺にしつこく塩を買うように迫ったのだ。
 俺は確かに塩吹きババアをババアと呼ぶことにしたけれど、そんなに塩吹きババアはババアって訳でもなかった。塩吹きババアはどちらかといえば綺麗なお姉さんだった。ただ、映画やドラマ、漫画や小説のヒロインとして登場するにはちょっとふけているような感じだった。言うなれば、実にババアキャラらしいババアだった。けれど別に結婚して欲しいとは思わなかった。
「なぁ若者いいだろう。減るものではないのだ、私の塩を買ってくれ。買ってくれれば良い事があるぞ。妖怪の私の塩を買うと、それはもう良い事があるぞ。買ってくれなければ言えないが、それはきっとお前の生活に役に立つものになるはずだ。だからな、買ってくれよ、私の塩を、良いだろう?」
 俺はもういい加減うざったくなったので、いつぞや味噌舐め星人にしたように塩吹きババアを組み敷いて脅してやろうかと思ったけれど、こういう時だけババアは都合よく幽霊で、俺の手の中をすり抜けていった。腹の立つ潜み笑いが部屋に響きたまらなく不愉快だった。不愉快だったが、あんまり騒ぐと隣で寝ている味噌舐め星人を含む、このアパートの住人が起き出してしまいそうだったので、俺はしかたなく塩吹きババアの塩を買うことにした。財布を持ち出していくらだと言うと、塩吹きババアはぴっと一本指を立てた。百円かと俺が聞くと、十円だと彼女は答えた。実は塩を売ると言うのは方便で、彼女は俺に警告を与えに来たのだと、俺に真面目な顔をして告げた。
「では警告しよう。その隣で寝ている娘は味噌舐め星人だ。人間ではないぞ」
 わざわざ警告されなくても俺はそんな事は知っていたが、一応礼を言った。