「超人Q」−4


 田原さんが戻ってきたところで僕にはもう話すことなど殆ど残っていなかった。知りたかった妹を殺した奴等の名前も分かったことだし、もう僕はこれで充分だった。そして、裸の少女の方もなんだかもう充分だったらしく、注いだ紅茶を優雅に飲んでいた。そんな空気を察したのか、田原千夏は僕の顔を見上げるとにんと悪戯っぽく笑った。どう、私の言ったとおりでしょう。
 この部屋に入ってからというのも、何もかもすべからくが彼女の言うとおりだった。彼女の言うとおり待っていた占い師は美少女だったし、裸だったし、優秀だったし、僕の最も知りたい事を教えてくれた。的中率100%だ。僕は彼女に感謝しても感謝しても足りない恩を売られてしまった事になる。
 だいたい僕はこうやって占い師を紹介してもらう事を、仕事をする条件にしていたのだけれど、まさか本当にこんな風に明晰な占い師に出会えるとは思っても見なかった。あまりに偽物ばかり引き当てるものだから、お金をためて探偵事務所にでも頼んだ方が良いだろうかと思うほどに、僕はこの世の占い師に絶望してかけていたというのに、彼女で全部チャラだ。
「占い師ではありません。私は真実を答える。未来の真実を少し早く答えることができるだけ。分かります、貴方は殺しますね、その人たちも」
「え、殺すって? ねぇ、それって本当なの? しかも、「も」、なの? すごいわ、会った時からヤバイ雰囲気していると思ってたけど、そっか、アンタ殺人鬼なんだ? へー、全然そんな風には見えないけれどね」
 お茶を呑みながらするような会話ではないなと僕は思った。なら僕がどういう風に見えるのか聞いておこうかとも思ったのだけれど、笑って誤魔化すだけにしておいた。田原さんは話を煙に巻かれて正直少し嫌そうな顔をしていたけれど、それは仕方のないことだった。彼女の事情に僕が巻き込まれるのはよくても、僕の事情に彼女が巻き込まれるのは避けなければならない。
「田原さんからその少女に特に話が無いようなら、僕はもう失礼するよ。それじゃぁ、どうも今日はありがとう。えぇっと……」
 そこで僕は、目の前に座っている全裸の少女の名前を田原さんから聞いていなかったこと、少女からもその名前を教えてもらって居ないことを思い出した。僕が困るのを見越していたように、キッチンから戻ってきた少女の手には、一枚の四角い銀紙が握られていた。それはよく見ると、銀地の包装紙に「A」というアルファベットが印字された、極薄のコンドームだった。
 いったいどんな意図で彼女が僕にこんなものを彼女が渡したのか、僕にはさっぱり分からなかった。けれども彼女はにっこりと、先ほど僕にお互い様について話した時の様な表情で僕を見つめていた。彼女の赤い瞳はまた僕の唇を覗いていた。僕は彼女の白くて綺麗に揃った前髪を眺めていた。
「私はA。超人A。全てを始まらせるもの。そして、自動的に始まるもの。始まってしまうもの。貴方はQね、終わらせるもの、全てを終わらせる。呼び辛いなら好きな風に呼んで。アリア。アカリ。アイカ。アリス。アリシア。アキラ。アテナ。アレイスター・クロウリー。お好きなように」
「最後だけ見事に話が違うね。やれやれ、そうだね、好きなように呼ばせてもらう。最初がAで始るのならそれで良いんだよね?」
アガメムノンでもいいです。けど、オススメはアリス。不思議の国の」
 僕は彼女の手からコンドームを受け取るとポケットにしまった。そしてもう一度彼女の瞳の中を覗き込んで、僕はその部屋を後にした。今度は世界は万華鏡の様に回転しなかったし、自分を見失う事も無かった。あるいは彼女は僕の中を覗きこまないように目を伏せていたのではなくて、覗き込みたくなくて目を伏せていたのかもしれない。その時、僕の中には彼女に覗きこまれるような価値のあるものなどもうすっかりなくなっていたのかも知れない。
 部屋を出た僕を田原さんがすぐに追いかけてきた。ねぇ、彼女どうだったと、田原さんは僕に彼女の感想を求めてきたので、僕は素直に彼女の事を不思議な人だと評した。超人A。Aのアリスは実に変わっている。その稀有な能力をそこから差し引いても、その強烈な個性が彼女を決して霞ませないだろう。実にエネルギーに満ちた女性だ、静かな外見と裏腹に、その中には生へと向かう途方も無いエネルギーが内在しているように思えた。
 いつも死の影に囚われていた妹とは真逆だ。いつも死の影を振り払おうとして空元気で笑っていた妹とは真逆だ。始った時から終わっていた彼女とはアリスは真逆だった。こんなにも真逆の人間が世界に同時に存在して居て、しかも僕の周りに存在していて良いのだろうか。けれども、妹を失ってすぐにこんな真逆の人間に出会うというのは、ちょっとした運命の様にも思えた。
「そういえば、君はどうやって彼女の事を知ったの。彼女と知り合ったの?」
「良く覚えてないわ。けど、たしか、知り合い――あの娘が言ってた美穂につれられてやってきたんだと思う。そう、そうだわ、その当時私ってばすっごく落ち込んでたのよ。悪い事が続いて、このまま悪い事だけで私の人生が埋まっていくんじゃないかって、凄く不安だったの。それで、どうしようもなくなって、自殺しようかってほど思い悩んで、実際に何回か未遂まで行って、つかれきった所にちょっと合わせたい人がいるって連れてこられたの。それが最初だったかな。うん、たしかそうだったと思う」
「その時、君には彼女は何て言ったの?」
「お腹の子を殺しなさい、だって。もうそのとき、法律的に堕ろせない状態だったのによ? 考えられる? けどね、彼女言ったの。遅かれ速かれ貴方はその子を殺す。それなら速い方が良いってね。そりゃそうよね、どうせ死ぬなら意識のないうちに死んだほうがいいわ。眠るように死んだ方が幸せなんだもの。ねぇ、貴方はどう思う、私はね人間の幸せって言うのは生まれてこないことだと思うの。精子の段階で死んでしまうのよ、けどティッシュの中で死ぬのは流石に可哀そうだから、お母さんの膣の中でね。そうして死ぬのが一番幸せだと私は思うのよ。ねぇ、それってどうかしら。貴方はどう思うかしら。そうそういい忘れてたけれど、私があの娘に会ったのってほんの二週間前なのよ。ほんの二週間前なの。この意味分かるかしら」
 やれやれ。僕は少し頭が痛くなった。そんな風にまくし立てられてもまくし立てられなくても、僕は人の言っている事を言わんとせんことを、十全に理解する事などできない人間なのだ。ただ、それでも、彼女が僕に何を終わらせようとしているのか、何が終わらせたいほどの苦痛なのかは理解できた。
「それが君が終わらせたいモノかい? それを君は終わらせたいのかい?」
「……終わらせて頂戴。それが一番この子にとっての幸せなのよ」
 彼女は一切の迷いを感じさせ無い口調でそう言い切った。けれども僕には彼女の決意をそのまま受け止める事などできなかった。人間の心は虚ろだ、今はこの様に言っていても、恐らく彼女はこれから歩んでいく事になる人生の中で、この瞬間を思い出して何度か辛い経験をすることになるだろう。結局の所、決意なんてするだけ無駄なのである。決意とは、辛さを和らげるものではなく、ともすれば気が来るってしまいそうになる辛さを気持ちで押さえ込むだけに過ぎない。結局の所、僕達の心の神経は正常に機能していて、異常な部分を感じとり僕たちに痛みを通達し続けるのだ。
 本当に終わらせなければいけないのは、心の神経の機能だった。僕はそれを知っている。知っているが、それを壊してしまえば、人が余りに脆くなってしまうのも知っている。妹がそれを教えてくれた。死の淵のギリギリの所で彷徨っていた彼女が、僕にその事を教えてくれた。彼女は死の淵に何度も落ちかけて、そして何も損なう事無く現実へと戻ってきた。彼女は最初から終わっていたが、終わっているゆえに終われなかった。そして、僕は終わらせることができるがゆえに、それを終わらせる事を戸惑った。彼女が言っていた言葉。超人Q。全てを終わらせるもの。それは、確かに僕の本質なのだ。
 アリスの部屋があるマンションから降りると、僕たちは人気の無い路地裏に入った。たむろする猫たちを押しのけるようにして、僕たちは深い所まで入ると、ちょうどいい塩梅に転がっていたゴミ袋をソファにして座った。彼女が僕の上に重なるようにして座った。その使用済みの性器が、布越しに僕の棒に押し当てられているのが分かる。彼女は今からその中の子を殺すと言うのに、生を求めている。その二律背反は僕をとてつもなく不幸な気分にさせた。彼女のお腹の中の生命も憐れだったし、彼女自信も憐れだった。そして、いつだって世界はこんな憐れな人たちで支えられているのだと思うと、もうその力を行使しない訳には行かなかった。僕はゆっくりとその名を呼ぶ。
「出てこい。分かってる、そこに居るんだろう。超人Q。お望みなんだ、終わらせてやろう。僕達の手で、終わらせてあげるんだ。彼女を」
 それは建物の影から現れた。相変わらず化け物の様に大きな男だった。肌が腐った緑色に変色した、見るからに化物の男、異形の男。その男の頭部には、ビニール袋やら新聞やらが何重にも巻きつけられていて、彼が現れると同時にいやに鼻につく腐臭が辺りに漂った。しかし、彼には全くと言っていいほど尊厳が無かった。彼はただそこに存在しているだけの、最早人間ではない薄汚い何か。言うなれば死体のような、ゾンビのようなものだった。
 僕に抱かれていた彼女は一瞬ひっと喉を鳴らしたが、僕が安心してとその下腹部を撫でると大人しく僕たちに身をゆだねた。僕は彼女の四肢を僕の四肢で確りと固定する。彼女の股に、緑色の太い指が伸びてきた。彼の緑色で今にも崩れそうな指は、その姿に似合わぬ動作で、まるでガラス細工でも扱うようにして彼女の膣の中へと入って行った。そして、その中に宿った生命を潰すでもなく、引き裂くでもなく、彼は優しく膣の中から掻きだした。
 鳥のような胎児は微かに泣いて事切れた。彼はそれを大切に、まるで死んでしまった小鳥を扱うように両手で抱えると、俺たちの前から姿を消した。
 放心している彼女に僕は魔法をかける。どうかこれが夢であるように、と。