「超人Q」


 ― 占い考察と予言者、超人A ―


 性格診断の代表格であり中でも最も科学的と捉えられがちな血液型性格分類がどの国がはじめたかを皆さんはご存知だろうか。なにを隠そうその発祥は我が国日本だ。恥多き国、日本だ。そも、血液型性格分類というのは統計学的な根拠など一切無いのだという。その詳細については僕も知らない。知らないが、どうにも図解雑学を読んだ限りでは、この統計学的にも科学的にもずたぼろの酷い研究結果を、一部の研究者達が日本社会に無理矢理にねじ込んで、現在の日本社会に置いて絶大な信頼と需要を築き上げたのだという。また、今現在、血液型と性格の関係性を真剣に考えている民族など、日本人くらいなのだそうな。そんな性格分類を基にした血液型選手権なんてものを、あの小倉智昭の番組でやっているというのは正直どうなのかなと思う。
 さて、事実なんかはどうだっていいね。占いについての僕の持論を語ろう。こういう事の方がすこぶる僕は調子が良いんだ。まずね、占いなんてのはたいてい、皆の身に平等に起こりそうな事を言っているだけに過ぎないんだ。つまりは、抽象的な事を言っているだけ。例えば、今日は大切な人と険悪になるだとか、逆に険悪な人と仲良くなれるだとか、そういうね。もちろん、あっちだって大多数の人間を相手にしているからしかたないといえばしかたない。道行く人を一人一人捕まえて、今日は友達の誰々と仲が悪くなるとか、嫌いな誰々と仲良くなれるとかそういう事は、テレビやインターネットではできないわけで。全人類を最大十二種類にクラス分けしてあいまいな暗示をするんだよ。そう、全ては暗示。テレビでやってる占いなんてのはたいてい、暗示なんだ。見た人が、あっ、これかなと思って勝手に幸福になる、勝手に不幸になる暗示。呪いの言葉。それが占い、それが血液型、それが星座。
 けれどこれが街頭の占いだとまた話が違ってくる。易者、占星術、タロット、四柱推命、姓名診断。辻やお店でやる占いには色々あるけれど、これらは呪いではないだろう。なぜかといえば、彼女たちは人を見てから初めてそれを言うからだ。恐らく、この手の占いというのはシステム的なものではあろう。それも星座や生年月日から算出されるようなものではなく、顔色や体調、その人の行動や言動から、経験則的に算出される一種の助言。占いという形で突きつけられる第三者からの性格診断。だから年老いて経験の豊富な占い師であればあるほどその言葉は信頼できるだろうし、彼女たちの言葉に一切の真実がないとは言い切れない。もしこの占いを否定するならば、僕達は経験と観察という概念自体を否定することになってしまうだろう。
 老人たちの言葉とは金言なのだ。と、同時に、老人たちの既得権の専有化は害悪なのだ。そして、金言と害悪の狭間に、占いという商売は成立する。
 そう思っていたからこそ、僕はこの日、酷く驚いた。依頼人に案内されて入ったとある占い師の事務所で、僕はその目を疑ったのだ。
 若い、若すぎる。僕のあれやこれやを占い、助言するには若すぎると思える少女がそこには立っていた。全裸で。一糸纏わぬ姿で。生まれた時の姿で。