「さようならチャップリン」-3(完結)


 翌日の昼休み、私は八島さんを尋ねました。八島さんはいつものように屋上で一人でお弁当を食べていました。私が来ると彼女は一瞬驚いた顔をしていましたが、すぐにいつものような顔に戻って、そして微笑みました。私はそれでなんだか安心して、あぁ、昨日の事はきっとなにかの間違いだったのだろうと、一瞬だけれど安堵してしまったのです。
「久しぶりだね。どうしたの、新しい職場で何かあったの?」
「別に、何もないよ。ただ私が八島さんの顔を久しぶりに見たくなっただけなんだ。どう、八島さん、元気にしてた?」
 八島さんの視線が泳ぎました。泳いで、すぐに私のほうを見据えて、八島さんは眩しいくらいの笑顔で頷きました。「うん、大丈夫。元気にやっているよ」という彼女の言葉の裏に、彼女の悲鳴が漏れ出しているように私には感じられました。いったい、彼女はなにがそんなに悲しいのでしょうか。なぜそんな張ったような笑顔を浮かべなければならなかったのでしょうか。
 私は意を決して持田の名前を出しました。出したくありませんでした、出すべきではなかったのです。なぜなら、持田の名前を出した途端に八島さんの顔は歪んだからです。その美しい顔が泣き顔に歪んだのです。そうなってしまうと私はもう彼女にそれ以上言葉をかけることはできませんでした。八島さんは手に持っていた弁当箱が地に落ちたのも分からないほどの酷い悲しみに暮れてしまったのです。それで私は全てを悟りました。彼女と持田の間に何があったのかを、それで理解したのです。そして私は思い出します。
 私はねじまき。緩んだねじを巻き、工場を回す者。私はねじ巻き。欠陥品のねじを取り替える者。私はねじ巻き、この工場というシステムの異常を識りねじを巻くもの。この工場の異常はなんだ、この工場を機能させないのはどのねじだ。ねじ、ねじ、壊れたねじ、壊れたねじは……。


 こんな私ですけれど、ねじを巻くことに関してだけはちょっと人より良くできるみたいなのです。それと同じように、こんな私ですけれど、人を殺す事に関してはちょっと人よりよくできるみたいなのです。
 気がつくと、私の中には七十四のパーツに分けられた持田の死体が転がっていました。あぁ、またやってしまったな、またやってしまったんだと私は思いました。可哀そうな持田、七十四個に分解されてしまって、可哀そうな持田。けれども彼もいけないのだ、私に近づいて、私の日常と心を乱さなければ、こんなことにはなりもしなかったのに。馬鹿だと思ったのだろうか、私が本当の馬鹿だと思ったのだろうか、持田は私の事を馬鹿だと思っていたのだろうか、刑務所上がりのただの馬鹿だと思ったのだろうか、なんの考えもなしにあの小五月蝿かった少女達を惨殺した馬鹿だと思ったのだろうか。確かに私は馬鹿だけれど、人が殺せる馬鹿だ、刑務所で人を殺す事がどんなにいけないことか知った馬鹿だ、そして殺すべき相手を知っている馬鹿だ。
 私の世界を壊さないでくれ。私の世界を破壊しないでくれ。お前たちはいつだってそうやって暴力で我が物顔で弱い私たちの世界を破壊する。これは報復活動だ、私達はお前たちから一方的に与えられるダメージを、死という形でしか返せないのだ。私達は、お前たちとダメージを与え合う関係になんてなりたく無いのだ。だってお前たちは、いつだって私にダメージを与える。だから殺す。物言わぬ肉の塊となら私達はきっと上手くやっていける。
 私は刑務所を出て、八島さんと出会って、やっと世界の広さを広げられた気がしていたのに。昔みたいに、自分の世界だけじゃなくなっていたのに、そこには八島さんが居たのに、なんでその八島さんに手を出したりしたんだ。持田、全てお前が悪いんだ。お前が全て悪いんだ、この欠陥品、緩んだねじ、世界に巣くう癌、悪意、そう、悪意。お前は暴力だ、存在するだけで暴力だ、お前が存在するだけで、私の世界は著しく損なわれてしまうのだ。
 七十四個のパーツを処分する事は簡単だった。七十四個という個数に意味は無いのだ。それは、ほんのちょっとした好奇心なのだ、今度はいったい何個に分解してしまったんだろうなって言う、それだけ。私はそれをねじまきでぐちゃぐちゃにすると、ビニールに二重で包んで近くにあったダンボールに詰めた。人一人分の重さのあるダンボールは運びづらかったけれど、私はそれを根気良く工場の外まで運び、トラックの荷台に積み、発進した。
 なぜ私は死ななくちゃいけないのかなと思った。私は世界を守ったけれど、どうやら今回は死ななくちゃいけないみたいだった。なぜなら私の周りの世界のねじで緩んでいるのは、不要なのは、どうやらあと私だけらしいのだ。私はねじまきであると同時に、世界のねじの一つなのだ。私はねじまきとしてそれを放っておけない。八島さんとねじが巻けなくなるのが心残りだが、しかたない、だって私はねじまきだから。要らないねじは捨てなくては。
 私はガードレールを突き破って海へと飛び込んだ。世界は今の所私のおかげで上手く動いているようだった。八島さんは、持田と私の死によって自由になるだろう、彼女は自由になれるだろう。私の死の悲しみを越えて自由になれるだろう。そのために私は生きるべきだったが、けれどもねじとしてはもう私は致命的だった。もう私は世界を上手く回せない。だから、ねじになるのをやめてしまおうと思う。ねじの生活は非常に魅力的で、私の心を癒してくれたし、八島さんという素晴らしい女性に恋をする時間を与えてくれた。私はそれに今凄く感謝している。チャップリンさようなら、ねじの生活はすばらしいものです。ねじの生活はいいものです。私達は、世界というねじに参加する事で自分の立っている場所を自覚できるのです。私達は所詮パーツなのですパーツですが意思のあるパーツです、そしてパーツは意味もなく外れてしまうのを、システムの中から弾かれてしまうのを恐れるのです。だから私は今、海に沈んでいく自分を凄く悲しく思う。この世界から外れてしまう事になった自分を愚かだと思うし、情けないと思う。私の涙は、この海に湛えられた何千何万の生命のスープよりも塩辛いのでしょう。
 トラックは岩礁にぶち当たってはじけた。私の体は肉片になっていく。三百六十五個に分散した私から視覚や聴覚や嗅覚がはじけ去っても、触覚だけは最後まで残り、その手にねじまきを握っているのを知らせてくれていた。私の右手にはねじまきがしっかりと握られている。私の魂は飛び散った右手とねじまきに宿ってこれからも世界のねじを巻くのだろう。安心してねじ巻き鳥さん。私が全てを呪ってあげる、全てのねじを巻いてあげる、全てが悲しく無いように、この世界を守ってあげる。だから、安心して八島さん。


「ねぇ八島さん。私に良いアイデアがあるんだ。八島さんも私も二人して幸せになれるアイデアがね。聴きたくないかい?」
「そうね、どんなアイデアかしら、どんな幸せかしら。よかったら聞かせてもらいたいわ」
「あのね、それは二人で同じ部屋に住むって事なんだ。私達は今お互いが入っているアパートを出て、この工場から近い所にあるアパートに引っ越すんだよ。そうして、私達は朝と夜に代わりばんこにご飯を作って、一緒にお弁当を作るんだ。そうすると何が良いってね、私のお弁当に八島さんの玉子焼きを入れられるって事なんだ。ほらね、これでわざわざ交換しなくても、私は毎日八島さんの玉子焼きを食べれるようになるんだよ。素晴らしいと思わないかい?」
「そうね。確かにそれは素晴らしいアイデアね。お弁当のおかずを交換できなくなるのは残念だけれど。けれどもそうすれば、私も大野さんのからあげをいつだって食べれるものね」
「けどね、本当に大切なのはねそうじゃないんだ。一緒に暮らすって事は、同棲するって事だよ。だから、私達はもう上の名前で呼び合ったりしちゃいけないって事なんだよ。わかるかなぁ、ねぇ、八島さん、分かる?」
「うん、そうね。同棲するなら、確かにそうするのが自然なのかもね」
「おほん、先に言わせて貰うね八島さん。私の下の名前はね…………」