「さようならチャップリン」-2


 私は次の日からなぜかスーツを着ていました。黒い黒い正社員が切るような、それはもうねじまきがきるようなつなぎとは比べ物にならないほど仕立てのいいスーツを着ていました。そしてその朝から、私の仕事場はもう工場ではなかったのです。工場にはなかったのです。私の仕事場は、工場の前にある立派なビルディングの中でした。私はその日出勤すると工場長に捕まえられて一度も入った事のないこのビルディングの中に連れてこまれたのです。
 ビルディングの中を知り合いの工場長に引きずり回された私は、最後にとても多くの物が置いてある部屋に入れられました。そこは本当にいろんな物がありました、見たことのないものばかりでした。見たことのない物ばかりですが、お酒が多かったように思います。思いますとしか言いようが無いのは、その場所への行き方は忘れてしまってもう確認もしようがないからです。
 その部屋には私と知り合いの工場長以外に、もう一人居ました。そのもう一人は、私たちが来るのを待っていたようでした。そのもう一人は私たちが部屋に入ってきたのが分かるとゆっくりと私たちの方を向きました。私はそのもう一人の顔をどこかで見たことがあるなと思いました。あれ、誰だっただろうかとその顔を思い出しているうちに、工場長が私の頭をいきなりぐいぐいと押し付けてきました。私は堪らなくそれが不快でしたが、なんだかそうするのが正解のような気がしたので逆らいはしませんでした。
 そのもう一人の人はこの工場の社長さんでした。けれど、社長さんでももう二度と会うことはないので、その人はもう一人の人でした、私の中では。もう一人の人は私の手を握り緊めてなにか感謝の言葉みたいな事を言っていました。私はなにも感謝される事はしていないのですが、感謝される事は嫌いではなかったのではにかんでおくことにしました。はにかんでいると突然もう一人の人は私に向かって、「それで、今日から君には工場ではなくて経理部で働いてもらう事になった。君の経営に関する洞察の鋭さには手放しに私も感心したよ。いやはや、こんな人材をなんで今まであんな部署に放置していたのか、宝の持ち腐れとはこのことだね。おい、聴いているのか持田?お前が確り部下の事を把握していないからこういう事になったんだぞ?」と言ったのです。持田というのは知り合いの工場長の名前で、彼が叱られるのはっきりいって面白かったのです。面白かったのですが、私は冗談じゃないぞと思いました。私は経理の仕事なんてしたくもなかったし、できることならずっと工場の中でねじを巻き続けたいし、ねじまきという仕事を続けたいと思っていたからです。
 そうです、私はねじまきという仕事に誇りを持っているのです。
 たとえそれが周りの人間から見てなんの役にも立っていない仕事の様に思えても。なんのクリエイティブさも無いような仕事の様に思えても。この近代化文明の中で酷く時代遅れに思われる仕事でも。二十世紀の遺物的な仕事でも、私はこの仕事が大好きだったのです。この仕事をしている自分が大好きだったのです。この仕事を一生懸命にやることに私は生き甲斐を感じていたのです。ですから、そのときばかりは私は私になって、NOともう一人の人に強く言ったのでした。けれども、もう一人の人はなにを勘違いしたのか、私が遠慮しているのだと思っているのでしょう、「いいんだよ大野くん。たしかに君は今まで工場であんなくだらない仕事をしていたけれど、その事は私たちの方に否があったんだ。君は本来あんなところで働いてちゃいけない人間だったんだよ」なんていう心無い言葉を私に浴びせたのです。私はこんな風に人の気持ちを考えない人が大嫌いでした、大嫌いで殺してやりたくなるのですがぐっと我慢しました。もう一人の人は社長さんなのです、きっと忙しくって一人の人間の心情に構ってあげられる様な親切はできないのです、きっと押し付けがましい親切しかできないのです。そういう人間に、そういう親切が不自由な人間に「お前はおかしい」とくってかかるほど私は愚かではありません。だからもう一人の人の発言を私は許してあげる事にしました。けれども私は言います。
「お言葉ですが社長、私はこの仕事を嫌々やっているわけではないのです。私はこの仕事を自分なりに誇りを持ってやっているのです。別にこの仕事を辛いだとか、経理の仕事が羨ましいだとかそういう事を思ったことは一度だってないのです。むしろ、この仕事を私は天職だと思っているんです。ですからどうかそういうことは、他の、もっと現状に満足していない人にしてあげてください。私は充分に自分の置かれた現状に満足しているのですから」
 私ははっきりとした態度で言いました。けれども、それを知り合いの工場長が許しませんでした。私がどれだけ強固に頑固に断っても、彼が話をややこしくこじらせるのです。そして、ついに私は彼に嵌められて、ねじまきの仕事を止めさせられてしまう事になってしまったのでした。
 その日の内にさっそく私は経理の人たちが居る部屋に行かされました。そこが私が今日から働く仕事場だったからです。仕事場に出るのは早ければ早いほうが良いと、知り合いの工場長が言ったからです。私は素直にその言葉に従いました、こんな奴の言う事なんて正直従いたくありませんでしたが、もうそうするしかなくなってしまったのです。しかたなく私は経理の部屋に足を運びました。経理の部屋には思いのほか人が居ました。工場よりはいくらか少なかったように思います。外国人の方は居なかったように思います。あるいは一人くらいは居たかもしれませんが私は気づきませんでした。
 部屋に入るとすぐに親切な方が私に気づいて声をかけてくれました。
「あぁ、もう来たのかい? 感心だね。聞いているよ、工場で働いていたって人だろ。なんでも面白い考え方をするんだってね。まぁ、仲良くやろう」
 随分と歳をとっている人でした。その人は私の前に手を差し出してきました。普段から握手なんかしないので、私はその人から握手を求められているんだと気づくのに時間がかってしまいました。
 経理での仕事はよく分かりませんでした。彼らはいつだって複雑な書類と悪戦苦闘していました。私はこれでもねじを巻くことしか分かりませんからせめて彼らの邪魔になら無いようにと気をつけていました。気をつけて私は彼らの仕事を手伝うところからはじめました。あまり私は要領のいいほうではありませんでしたからよく間違えて怒られました。怒られると気分が悪くなります。経理の人たちは別に悪い人ではありませんでした、私が殺意を抱いてしまうような人たちではありませんでした。けれど腹が立つ事には素直に腹が立つのです。自分が悪くったって、気分は悪くなるのです。
 私はその悪い気分を払拭する為に色々と自分にできる事を考えました。考えて考えて考えた結果、自分には見る事と考える事しかできないなと思いました。いつだって私はねじのどこが間違っているのかを目ざとくみつけることくらいしかできないのです。この会社を大きな機械に見立てて、考えて、私はねじが緩んでいるなと思うところを考えました。そう考えると以外に色々と思いつくものです。そして、私はその色々と思いついた事を、経理の皆に臆面もなく全て言ってしまうことにしました。最初は何を言ってるんだこいつという目で見られましたが、あまりに私が一生懸命に言うものですからその内に何人か私の考えに同調してくれる人が現れました。私は私のものの見方と考えが正しいかどうかの自信がありませんでした。ありませんでしたから、その私に同調してくれる人たちと良く喋りました。三人寄ればなんとやらという奴です。私達は皆でよりよいやり方を考えて、それを実行しました。全て上手く言った訳ではありませんでしたが、たいていの場合でそれは上手くいったので、すぐに周りは私のことを認めてくれるようになって来ました。
 けれど一つだけ認めてくれなかったことがあります。私が経理で働き始めてちょうど半年くらい経ったある日のことです。その日はあの最初に私が経理に入ったときに一番最初に声をかけてくれた彼の送別会があったのです。彼らは私に言いました。言ってしまったのです。
「君ね、本当によくあんなねじまきだなんていう単調でどうしようもない仕事をやっていたね。いや、あるいはそういうありきたりで単調な仕事でも、改善点をしっかりと見抜けるというのが君の才能なのかもしれない。とにかく、君は工場なんかで働くにはもったいない人材だよ。本当に経理に来てよかったと思う。君はねじまきなんて仕事で一生を終える人間ではないよ」
 私はその言葉を聞いてカチンと来ました。怒りがこみ上げてきました。やっぱりなと思ったのです。やっぱりこの人たちはちっともねじまきのことがわかっていない。ねじまきはとっても大切な仕事だってことに気づいていない。私は怒りました、ねじまきがどうして工場に必要なのかをこの人たちはまったく知ろうともしていないし、知る必要なんてないとも思っている。ねじまきは工場を動かすのに必要なんです。今私はこうして経理で仕事をしているけれど、私は今だって一生懸命に会社のねじを巻きなおしているだけなのです。それが眼に見えないものか眼に見えるものかの違いなのです。そしてそんなことにも気づかないで彼らは本当にどうでも良い事ばかりを言うのです。できて当たり前の事ができると言う事が、できて当たり前の事を続けるという事がどんなに素晴らしい事か、彼らには理解ができないのです。
 理解ができない人間の相手をする必要はありません。私はもうすっかりその宴会で彼らのことが好きにはなれなくなってしまいました。嫌いではありません。だって、彼らはねじまきの重要性を分かってくれない事に関して以外は凄く親切だったし凄く優しかったのです。彼らはねじまきの重要性はわかっていないけれど、普通に良い人だったのです。だから、私は嫌いになれませんでした。だから、その日も、その話が終わった後も、私はずっと気分の悪いままで、ずっと気分がくさくさしたままで、皆がねじまきのことを口々に悪く言うのに、その宴会に居たのです、ずっとニコニコで居たのです。
 宴会がお開きになったのは九時くらいでした。私はもうどっぷりと疲れてしまっていました。皆があんまりにねじまきのことを悪く言うので、どっぷりと疲れてしまったのです。私はもう疲れたので今日はこれで帰りますと皆に言いました。また明日ねと最初に私に声をかけてくれた人が言いました。皆が大笑いしていました。私も笑いました、けれど、心の中はくさくさしていました。こんな時には私はどうしていたんだっけと考えました。私はねじまきをしていたとき、こんな気分になったらどうしていたんだっけと考えました。そして唐突に、本当に唐突に、八島さんの顔を思い出したのです、八島さんの可愛らしい三つ編みのおさげを思い出したのです。半年間もほったらかしにしておいたというのに、突然に。そうなると、私は八島さんに会いたくて合いたくて仕方がなくなってしまいました。


 数えてみると、八島さんと私はもう半年も会っていませんでした。けれど彼女がどこでなにをしているのかなんて事は、半年会っていなくても分かりました。私はすぐによく二人で行っていた銭湯に向かいました。きっとこの時間なら八島さんは銭湯にいるはずなのです。私はびゅうびゅうと冷たい風が吹く中で八島さんを待ちました。雪が少し降りました、それでも待ちました。待って久しぶりに元気を分けてもらおうと思いました。八島さんに話したいことや聞きたいことも色々ありました。なによりも彼女の顔を私は見たかったのです。こんな事ならもっと早く会いに来るべきだったと、私は銭湯の前の電柱に寄りかかって彼女が出てくるのを待ちながら何度も思いました。
 けれど八島さんは出てきませんでした。待っても待ってもちっとも出てこなくって、気づくと銭湯はもうしまっていました。おかしいなと私は思いました。八島さんは銭湯が大好きでした。私に誘われなくても、きっと一人で来るくらいに銭湯が大好きでした。なんで銭湯が大好きなのかは知りませんが、そんな彼女が銭湯に来ないなんてことがあるんでしょうか。
 私は彼女の身に何か大変な事でも起きているんじゃないかと思って、すぐに彼女の家に向かいました。彼女のアパートにはあかりがついていません。いないのかなと私は思ったのですが、一応チャイムを鳴らしてみました。返事はありません。けれどもそれだとおかしいのです。だって、ねじまきの仕事はもうこの時間にはすっかり終わっていて、私達はいつも家に帰っている時間だったのです。この時間に八島さんが家に居ないはずがないのです。
 何度も鳴らすのは失礼だなと思って、私は八島さんのアパートの玄関にさよならしました。そして、最後に外から彼女の部屋の窓を見上げたのです。
 何かが窓の中からこちらを伺っているのが見えました。確かに見えました。それがなんなのか私には瞬時に分かりました。その暗闇の中には確かに人が居たのです。だれが居るのでしょうか、それは女性の瞳ではありません、ぎらぎらとした男の人の瞳です。八島さんの部屋の中にいったい誰が居るんでしょうか。私が釘付けになっていると、さっと窓にカーテンが引かれました。それで、おしまいだと思ったのでしょう。それで、隠せたと思ったのでしょう。けれどもそれは間違いでした、これっぽっちも正解じゃありませんでした、零点な残念賞な回答でした。だって、それを引くよりも早く、私はその顔を、その憎憎しい顔を、記憶に、脳裏に、網膜に焼き付けたからです。
 それは知り合いの工場長――持田でした。持田はその日、八島さんの部屋にいたのです。八島さんの部屋に居て、八島さんを持田は弄んでいたのです。
 私の体に明らかな殺意が芽生えました。私をあんなところに押しやった持田は、八島さんにいったいなにをしたんでしょう。嫌がる八島さんにしつこくセクハラをしていた持田は、私が居なくなった後八島さんになにをしたのでしょう。そんな事どうでもいいくらいに私の頭の中は分からなくなって、ふつふつと足のそこから沸いてくる殺意によって犯されていきました。それは乱暴な殺意でした、不良達の純粋な怒りとは一線を隔すのです、それは明確な殺意でした、乱暴な世界に対する乱暴な世界に加担する人間に対する明確な殺意でした。私はその殺意にまるきり飲み込まれてしまいそうでした。けれどもなんとかその殺意を飲みかえして、私は家に帰りました。帰るしかありませんでした。