「さようならチャップリン」-1


 チャップリンさようなら、大好きだった貴方の大嫌いな工夫に私はなりました。チャップリンさようなら、私はこれっぽっちもクリエイティブではななくなってしまいました。毎日毎日工場で、螺子を巻くだけの螺子まきの私。ねじまき鳥だって私ほどねじを巻くことはないでしょうね。
 どうか勘違いしないで欲しいのは、私は工場で働く事を別になんとも、これっぽっちも、本当にこれっぽっちも、といってもこれっぽっちの単位なんて人によって違うのだけれど、とにかく、私は後悔なんてしていませんでした。確かに小さい頃の私の夢は、立派な警察官になって町中の不良という不良を銃で皆殺しにすることだったけれど、一度だって不良に勝てたことのない私には警察官なんて無理でした。
 なので工場でねじを巻いています。毎日毎日ねじを巻いています。
 別にねじを巻くことは好きではありません。嫌いでもありません。けれど仕事をするのは好きです。こんな私ですけれど、ねじを巻くことに関してだけはちょっと人より良くできるみたいなのです。皆はねじを巻くことを単純な作業だとクリエイティブでないだと言いますけれど、私はそれで良いです。ねじを巻くのは皆が言うようにちっともクリエイティブじゃないけれど、とっても簡単だけれど、手間がかかるんです、それでいて繊細なんです。私だけが、私だけはその事を知っているので、別にそれでいいんです。
 私は朝の八時からねじを巻きに工場に向かいます。そうして工場の人に挨拶をして、ロッカールームで着替えて、だいたい九時くらいから工場のねじを巻き始めます。巻かなくちゃいけないねじはとくにこれといって決まっていません。ねじはいつだって突然に巻かなくちゃいけないような状態になります、これをロボットでどうこうすることはできません、複雑すぎるのです。複雑すぎて人間が監視していないとねじはヒョイとどこかに外れて行ってしまって、そのままだと工場が停止してしまうのです。だから、私たちねじまきが毎日工場の中を歩き回って、ちょっとだってねじが緩んでいたらそれを巻いてあげなくてはいけないのです。
 私たちと言いました。私以外にも工場でねじを巻いている人は居ます。といってもこの工場でねじを巻いているのは私とその人で二人だけです。八島さんといいます。八島さんは女の子です、私より二つ年上の女の子ですけれど、小さくておさげの可愛らしい女の子です。一度彼女の三つ編みが歯車の間にはさかって取れなくなってしまったときは大変でした。けれども、彼女は今でも三つ編みです。三つ編みの二つのおさげなのです。
 私たちはそうして十二時になるとお弁当を食べます。私たちはねじまきなので工場の人たちの食堂は使えません。なので、二人はいつも工場の屋根に上って、自分たちで作ってきたお弁当を食べるのです。
 時々八島さんのお弁当がおいしそうに見えて仕方なくなるときがあります。そういう時私は自分のおかずと八島さんのおかずを交換してくれないかと頼みます。彼女は一度だっていいえといった事はありませんでした。
 八島さんはとても優しいのです。天子みたいにやさしいのです。
 私たちはお昼をそうやって時々おかずをこうかんしたりして食べました。そしてその後は、工場が夜になって停止するまで、ずっとねじを巻き続けるのです。八時になったらはいおしまいです。これが私たちの日常です。
 クリエイティブじゃないねと皆言いますけれどそれがなにかおかしいことでしょうか。クリエイティブじゃないけれど、ねじを巻く仕事は工場の人の役に立っています。私はそれを知っていましたし、八島さんもそれを知っていました。だから、私たちはちっとも負い目なんてなかったのです。
 けれども私は昔からチャップリンが大好きだったので、チャップリンだけにはちょっと悪いかなと思いました。ごめんなさいチャップリン、貴方が描いた非人間性の中に私は自分の人間としての役割を見出したのです。最も、今と昔ではお給金や仕事の環境なんてまるでちがうけれど。
 半日も立ちっぱなしでねじを巻いていると体は疲れます。なので、私はたいてい仕事が終わると八島さんを誘って銭湯に行きます。私たちの少ないお給金ではお風呂のあるアパートには住めないのです。けれど、私たちは幸いな事に銭湯が好きなので問題はありませんでした。
 銭湯からあがると八島さんはほっこりしています。いつもは三つ編みの八島さんはお風呂から出てくるとウェーブのかかった長髪になるのです。それがとってもほっこりとしていて、ふわふわしていそうで、私はいつも八島さんを抱きしめたくなります。抱きしめたくなりますけど、私たちの付き合いはあくまでお仕事の上での付き合いなので、それ以上のことは私にはできません。そうして私は隣の八島さんのふかふかとした感触を考えながら、ふかふかとした気分で八島さんをアパートまで送り、「ばいばい、また明日工場でね」と別れると、ふかふかの余韻を楽しんで自分のアパートに帰るのです。


 その日は私はちょっとだけ朝から気分がよかったのです。なぜかというと、私がアパートのベランダで育てているラベンダーが、今日の朝やっとつぼみをつけたからです。私はるんるんで仕事場に出かけました。そして八島さんにいつもの様に挨拶をして、ねじを巻く仕事を始めたのです。
 その日のお仕事はご機嫌に順調でした。ねじを巻く仕事はけっして簡単ではないのですが、その日だけはなぜかねじを巻かなくてよかったのです。私はそういう日もあるんだなと少し不思議に思いました。そして不思議なことは続くものです。私たちがお昼になっていつものように工場の上でごはんをたべようとしていると、知り合いの工場長さんがやってきて、「今日は工場の食堂の方で食べていいぞ」と私たちに言ったのです。
 私たちは顔を見合わせました。こんな日が一度だってあったかしらと顔を見合わせました。どうしてですかと知り合いの工場長さんに聞くと、「今日は特別暑いからな」と知り合いの工場長さんは答えました。
 特別に暑いと工場の食堂でご飯をたべても良いのは知りませんでした。特に断る理由もないので、私達はお弁当を持って食堂の方に向かいました。食堂にははじめて入ります。私は、怖い人はいないだろうか、不良の人はいないだろうかと思いました。居て欲しくないなと思いました。私がズボンにねじ込んだねじまきをぎゅっと握ると、八島さんが「大丈夫よ」と言いました。
 食堂には色んな人が居ましたが私の知っている不良はいないようでした。ねじまきでボコボコに殴り殺してやりたい不良みたいな人は居ませんでした。代わりに外国人の人が多かったです。外国人の人たちはだいたい似たような人たちで集まって食事をしているようでした。
 入り口からすぐの所に日本人の人たちが集まっているのが見えました。一人の男の人と目が合いました。彼はすごく爽やかそうな人でした。きっと、私みたいな人間とはDNAのレベルで違っているんだろうなと思いました。
 私達はどのグループにも属していないテーブルを一つ見つけてそこに座りました。本当に奇跡の様にそんなテーブルがあったのです。私達はそこに座って、いつもの様にお弁当を広げました。お弁当を広げながら気づいたのですが、食堂の中はほどよくエアコンが効いていてとても涼しかったのです。冷え症な私には少し寒いくらいに、けれど、油まみれにほこりまみれになってやっていた仕事の後には心地よい涼しさでした。私はどうやったらいつもこの涼しい食堂に入れるのかなと考え、こんな事なら毎日が特別に暑ければ良いのにねと八島さんに言いました。八島さんは何も言わずに、くすくすと私のほうを向いて笑っていました。とてもそのときの八島さんは可愛らしかった思います。今でも写真に取りたいと思うくらいに可愛かったのです。
 からあげと厚焼き玉子を交換しました。からあげが私ので、厚焼き玉子が八島さんのです。八島さんの厚焼き玉子は甘いです、とっても甘いです。私は甘い厚焼き玉子はお正月くらいにしか食べることがないので、ときどき無性に食べたくなると八島さんにお願いしてこうしていただくのです。私が厚焼き玉子を食べていると、ねえ、ちょっと、と誰かが私たちに声をかけました。横を向くと、そこにはおうどんをお盆に載せた、さっきの男の人が立っていました。彼は私たちがせっかくどのグループにも属していないテーブルに座ったというのに、勝手に私たちのテーブルに入り込んで座ってしまいました。この人はやっぱり私とはDNAレベルで違っている人間なんだなと思いました。不良ではないけれど、私は、あまりその男の人を好きではないと感じました。一発くらいねじ巻きで殴ってやろうかと思いました。
 男の人はへらへらと私に語りかけてきました。なにを言ったのかは覚えていません。私は好きではない人の言葉をあまり真剣に聞かない癖があるのです。それは私の大切な大切な時間を、別に好きでもない人に切り売りする気には、どうしてもなれなかったからなのです。なので私はそうなるといつも適当な事を行ってその場をごまかします。私は嘘つきです、ねじまきですが嘘つきです。よく親とか兄弟から、お前はよくそんなに上手な嘘がつけるねと感心されます。それくらい私は嘘が上手かったのです。嘘じゃありません、本当に私は嘘つきだったのです。残念ながら、私が嘘をつかないのは、目の前に居る八島さんだけだったのです。彼女だけにはどうしても、嘘をつくことができなかったのです。なんでも本当の事を話したくなってしまうのです。
 どうしてこうなってしまったのかは分かりません。だって私はいつもの様に一生懸命嘘をついていただけなのです。なので、話の流れがどうなって目の前に座っていた男の人が凄いと言ったのか。そして、男の人がなぜすぐに飛び出していったのか、まったくこれっぽっちも意味が分かりませんでした。
 やっと静かになったねと私と八島さんは食事をしました。八島さんに私は何が凄かったのと尋ねました。さぁねと八島さんは答えました。八島さんも男の人と私の会話にはまったく興味がなかったようでした。それを見て私は少しほっとしました。もし八島さんがあの男の人に少しでも興味を示していたら私は男の人を何発もねじまきで殴っていたかもしれません。死んでしまうくらいに殴っていたかもしれません、殺してしまうくらいに殴っていたかもしれません。なので、ほっとした気分に私はなりました。
 それから私達はちょっといつもより遅くまでご飯を食べていました。誰にも邪魔されずおしゃべりをして、私たちはチャイムの音でお昼が終わるのを知りました。それで急いでお弁当を片付けると、工場へねじを巻きに戻ったのでした。工場へ戻ると知り合いの工場長さんが待っていました、待っていて「大野ちょっと」と、私の事を呼びました。言い忘れていましたが、私は大野といいます。下の名前は、貴方の事を私は八島さんほど好きではないので教えてあげません。下の名前は八島さんに教えてあげる為に大切にとっておいてあるのです。
 工場長は私に「お前が小野に言ったあれな。今度うちの工場で実際にやってみようと思うんだ。いや、お前に言われるまで気づかなかったよ。どうしてあんな単純な事に今まで俺たちは苦労してたんだろうな」と、言いました。小野という人に心当たりはありません。言っていたあれということにも私は心当たりがありませんでした。私はいったいなにがなんだか分かりません。
「なぁ、実はまだ他に何かいい方法を知っているんだろう? 教えてくれよ大野。俺はちょっとお前の事を誤解していたよ。お前って奴はねじばっかり巻くしか脳が無い奴かと思ったら、案外に頭のほうも良いんだな。なぁそんな謙遜するなよ、今はこんな苦しいご時世だろ。藁にも縋りたいんだ。工場のためを思って、お前が普段思っている事をつつみ隠さず言ってくれよ。なっ頼むよ、お前だけが頼りなんだ……」
 おや、なにやら変なことになったなと私は思いました。それから私がなにを言ってなにを思ったのか私はよく思い出せません。私はあまりその工場長の事が好きではなかったからです。彼は時々八島さんのお尻を触るからです。本当は殴り殺してやりたい奴No.1なのですが、私の親と彼はちょっとした知り合いなので私は何もできないのです。彼はそれを知っていて時々意地悪をします、今思うと今日私たちを食堂にやったのも意地悪だったように思います。けれども、こんな事になるなんて私は思ってもみなかったのです。
「すごい。それは素晴らしい話だ。さっそく社長に報告しなくては。おい、大野お前って奴は本当に凄い奴だったんだな。私から口利きしてやろう、喜べ、今日からお前はねじまきなんていうあんなまどろっこしい仕事をしなくてもよくなるぞ! お前はもっと偉くなれるんだ!!」
 私には工場長が何を言っているのかよく分かりませんでした。論理的に意味が分かりませんでした。けれども、どうやら私がねじまきという仕事をしてはいけなくなったことだけはわかりました。どうしてねじまきをしてはいけないのでしょう。私はこんなにもねじまきが好きなのに。それは私が偉くなるからでしょうか。なんで偉くなるとねじを巻いてはいけないのでしょう。
 なんでねじを巻きながら偉くはなれないのでしょう。私にはそれがまったく分かりませんでした。意味不明でした。ねじまきで今すぐ目の前の男の広いおでこに殴りかかってやりたいくらいに頭がくらくらしました。くらくらしたのは暑さのせいだったかもしれません。その日は特別暑かったのです。私はもうなにがなんだか分からなくなって、それこそ世界が回って私がねじを巻かれているようなそんな感覚に陥ってしまいました。周りながら、あぁもうすぐ意識が飛ぶなと思いました。