あるいは僕はストーリーというものに対してあまり経緯を払っていない


 どんなに秀逸なレトリックを持った推理小説も最後のページを見てしまえば、犯人という結果を得ることが誰でも出来る。僕という人間の嗜好ないし思考を表すのにこれほど適した言葉はないだろう。物語の最初の一ページを読んで、全てを知ったようになる人間が居るのなら、僕の様な人間もまま居るだろう。
 つまりだ、僕はストーリというものに対して微塵たりともその関心を注いでいないということだろう。僕にとって大切なのはその中に描かれている過程ではなく結論、入力とアウトプット、あるいはそこに至るまでの精神的葛藤であり、その外的要因に類する様々な煩わしい出来事は僕の頭からはフィルタリングされてしまうのだ。
 そして、小説のテーマが明示的であればあるほど僕はご機嫌になるのかもしれない。
 とにかく、僕は小説というもののストーリーというものが大嫌いだ。世に溢れている小説と名のつくのもおこがましいあんなものは、二・三行で済ましてしまえばすむことなのだ。あらすじで書ききれる内容ならば、それはもはや僕の中では小説という定義に当てはまらないのだろう、きっと。
 とにかく、僕は文章の中になにがしの意味を探している。その意味というのが意外性とドラマ性というどうしようもなくくだらない要因だけに費やされた時僕はその小説にとんでもない憎悪を抱くということは確かだった。コンテキストな例をあげようか、例えば最後の最後で恋人が死ぬ話だ。それだけで僕は憤るのだ、死ぬために用意されたストーリー、そこまでに描かれるありとあらゆる事象は、死という一瞬の出来事彩るために用意された、クレソンだとか唐辛子だとかパセリだとか、そういう調味料でしかなく、それは結局のところ筆者という人間が器用に作り上げたスパゲッティでしかないということなのだ。わかるだろうか、僕は文学にちょっと変わったスパゲティを求めているのではない。僕が求めているのは、今までに食べたことのない料理である。それは基本を抑えていなくても良く、ありとあらゆる非道徳的な材料によって、あるいは新進気鋭の腕も不確かなシェフが偶然に作り上げたような決して二度と食べることの出来ない何かなのだ。
 別に気取って言ってるわけじゃない、私は特別なのよと。ただ、そういうのが好きな人間だと言っている。とにかく、まずくてもうまくても、僕は自分の知らないものを、自分から欠落している何かを求めて小説を読むのだ。
 もっとも、そんな僕に最も欠けているものは、ストーリーだとかレトリックだとか言う技巧なのだが。つまりはそういう技術に対して僕は嫉妬しているのだろう。彼らが時間と努力を代価にして勝ち取った努力にけちをつけることがどんなに愚かしい行為かということを僕は知っているが、反面その時間と努力を代価にしても決して得られない何かがこの世の中にあることを知っているのだ。
 僕は幼少時代からなんとか今まで生き残ってこれた。どちらかといえば、僕はモラリティの無い人を不愉快にする人間であったし、その反面人から受ける暴力に対して対抗する肉体を持ちはしなかった。持てるとも思わなかったし、持とうとも思わなかった。あるいはそういうことを自己の責任として君たちは責めるだろうが、まったくその通りだ。そして君は知力の代償に腕力を行使し、僕は腕力の代わりに知力を行使することにしただけだ。そして僕はそのどちらも満足に暴力に返れるだけの容量を持ちえることは出来なかった。ただそれだけだ。
 あるいは僕は知力とともに腕力を得ることで完璧な人間に至る道が敷かれているのかもしれないが、それをしたくないと思うのは、自分の鍛え方が悪いのか、それとも元来そういう体質なのか、どんなに腕立てをしても腹筋をしてもまるで効果を感じられない自分の肉体に対してのあきらめであった。どうあがいたところで最初からそういう風にできているのだ。怠惰なのも含めて。
 あるいは、皆は自分よりも多く回数をこなしているだけなのかもしれない。そう思って僕は今までこれだけはと思った文章を書いてきたつもりだった。
 ――なぜ書き始めたかという僕の過去の話はいずれすると思うが、結局その要因自体も酷い話だ。今思うと騙されたのだと言う風にしか捉えられないが、それでもこうして文章を書いている間は僅かながら幸せというものを実感できるのから、あながちあの出来事をうらむこともできはしない。けれども、本当の悲しみはそこを越えた所にある、そしてそれは僕とは現実的には関係のないところで起きている出来事であり、僕の内面の深い部分に傷を負わせてしまった出来事でもあった。とにかく、それは後回しなのだ。――
 それでもこうしてかれこれ七年間を文章を書くという物事に従事したが、いっこうに上手くならず、あるいは自分の文章の成長性の無さに絶望する毎日を送るにつれて、なんとなしに悟ったのだ。どんなに頑張った所で、僕にはストーリー性のある小説というものは書けないし、書こうとしても赤っ恥を書くだけだと。何度書いても物事の列挙をしただけで、余分な言葉で埋め尽くされた僕の小説には、ストーリーという文章の調理法に最も適していなかった、ただそれだけのことを気づくのに七年の歳月を無駄に費やした。あるいは、七年という歳月が、僕にこの世の中にあるどうしようもない物事というものを教えてくれたということなのかもしれない。高い、と思う。
 生まれ持った才能ではなく体質的な何かである。それは訓練でどうにかなると人は言うだろうが、僕は彼らの言葉に耳を貸すつもりは無いし、僕は彼らに言われてどうにかなる人間ではない。七年間、一年間、六ヶ月、三ヶ月、絵を描き続けてもちっとも満足に上手くならなかったことを見てもらえば分かるだろうと思う。
 僕は結局の所、そういう風に、彼らの望む風に出来ていないのだ。そして彼らは僕を散々に弄り回した挙句言う、「そうだね、昔君が僕の前に現れた時には酷い顔をしていたが、今は随分と良い顔になったよ」と。そんなお世辞は僕はもうこりごりなのだ。欲しいのは本当に自分に納得できるだけの力なのに、彼らはそういって色々な事をごまかす。それで成り立つ社会、例えば家庭であったりするならばそれでいいのだろうが、僕はそんなものには興味ないのだ。外に出て、何かを奪い取ってくれるそんな力を僕は欲していた。
 あるいは僕が貴方達に対して理解を示していないのが根本的な資質だというのならば、結局のところやはりそういう出来ているところに落ち着く。それを根本的に返ることが出来ないというのなら、それはやはり僕の体質的な、そういうものなのだという、結論と相違ないのだ。全ては僕の中に根付いて今や帰ることの出来ないほどに定着してしまった怠惰あるいは思考なのだ。そしてその思考がはてしなく僕のストーリーを邪魔する妨害するのだ。
 はっきりいおう、僕はストーリを話すのが苦手だ。君たちの事を考えて物事を考えることが出来ないのだ。どのような言葉を選べば君たちは納得してくれるのだろうが、君たちは喜んでくれるのだろうか、それがわからず、わからないからこうして文学をやっているつもりだ。だから僕は君たちを喜ばす文章を書こうとするときに、特殊な脳のプロセスを使用しなくてはならなくなってしまう。それは僕はまったく使わないプロセス、いや機能なので、僕は使いこなすのに凄く苦労するし、普段から使いたいとも思っていないのだ。だからどうしても君たちに分かってもらおうとする文章を書くと、僕は頭の中がパニックになり、その分かってもらう何かの中にストーリーは含まれていて、そしてその何かというものは僕の頭の中で考えるというプロセスにはいっさいこれっぽっちも含まれていないのだ。
 だから僕はこうして文章をいままで書いてきても一向に楽しくなかったし、あるいは君たちに合わせることを苦痛に感じてきた。七年間を通して僕は苦痛に感じてきたのだ。今思うと。それでも逃げずに書いてきたのは、そう書くことでしか僕はこの世界で生きていけない。もし、僕の常時の考えが、無限に拡散していってどこにも収束することの無い果てしない思考と疲労そして排他的なプロセスをぶちまけてしまえば、僕は白い壁に囲まれてその一生を終えてしまうのではないかと危惧したからだ。危惧なんてものじゃない、それはもはや僕の中で生きる上でもっとも恐ろしい事象になっていった。そう、ありのままを自分をさらすということは、無条件に人から殴られることなんだと怯えていたし、こうも思った。こんなものは文学でもなければ小説でもない。こんなものを認めることはできないと。
 それを今こうしてさらけ出そうと思ったのは、もうこうすることでしか僕という存在が文章を紡ぐことが出来なくなってしまったからだ。もう辛い思いをして、なれない筋肉を動かして何かを考える必要をなくしたいのだ。つまり、僕は普段僕が使用している筋肉だけを使って文章を書きたいのだ。恐らくは多くの小説家の方々は、話が上手いのではないかと思う。彼らは、話すというプロセスを書くというプロセスの上に吐き出すことで文章を書くのではないかと僕は考えている。僕は話すという行為に対して非常に問題を抱えた人間なので、それができないのではないかと結論づけ、もし僕が彼らと対等に紙面というところで渡り合えるとしたら、もう、この普段使っている思考方法を使うしかないと。あるいは、彼らは社会というものを良く知っているから、社会というものをありありと紙面に書き出すことができるのだろう。対して僕は社会というものをまったくしらないから、その一つを描くにしても酷く不器用なものしかかけないのかもしれない。全ては僕の無知から始まっている、しかし、その無知をどうやっても埋められないと知り、無知では文章を書く資質がないというのならば、無知でも書き続けてなんとかするほかない、自分の最も鍛えている部分を前面に押し出して、自分が最も書ける部分を前面に押し出してなんとかするしかないという結論に至ったのです。
 もっというと、僕はおしゃれもしたくないし、かっこよくもなりたくないし、誰かに合わせることもしたくない。だから、文章にはなんの虚飾もないし、その文章を誰かのために改変するような努力をする機構を持ち合わせていない。ただ、反面僕は誰かの文章の中に隠れている、自我に非常に強く引かれるところがあり、それを解くことにより得られる共感に飢えている。それは、感動しただの泣いただの物語的な共感ではなく、もっと根の深い、それこそねじまき島クロニクルの様な他者との共感なのだ。そしてもうひとつ、自己顕示欲によって凝り固まっていて、ありのままの自分をこの社会にねじ込みたいという、なんの優しさも持ち合わせない童貞じみたペニス神経なのだ。凄く酷い具体的な話をするならば、僕は社会に対して優しくぬらして挿入するよりも、無理やりペニスを突っ込んでレイプしたいのだろう。そしてそれは多くのレイプがそうであるように、挿入したモノに酷い異物感と不快感を与える。そこまで分かっていても、僕の中にある獣の部分は決してそれをやめようとしない。非常に僕は野蛮な人間なのだ。そして多くの矛盾を抱えていて、それを回収する術を持たない。
 もしかするとそろそろなれてきてくれただろうが。ようこそ、僕の世界へ。ようこそ、僕の頭の中へ。もう僕は僕の頭の中をさらけ出すことでしか文章を書くことができないというのならば、そしてそれが酷く世間の洗練された会話とかけ離れていたとしても、もうこうして書くことしか出来ないのでしょう。そう、僕は文学というものになんの洗練も、成熟も、技巧も求めず、敬意を持たない。ただその中に漂う作者の自我だけを追い求めたいのです。ただ僕が文学に求めるのはそれだけなのです。退屈しのぎの文章ならば、そんなものは僕にとってなんの意味も持ちません。だからでしょうか、僕は何故かライトノベルというものが嫌いなのです。はっきりと言ってしまいましょう、嫌いなのです、アレは。まるで、僕を手玉にとって遊んでいるような気がする。彼らはとても可愛らしい娼婦で、僕の体の隅から隅までを知り尽くしていて感じさせるような、そんな感覚しか得られないのです。そこには、僕が手を加える部分はなにもなく、なにもかもが完成されていてそれは技巧的に大変素晴らしいことなのですが、自我と自我の距離が遠く、何の共感も呼び起こさせないのです。あるいはこれは僕がライトノベルというものに偏見を持っていて、読めば面白いと思うのかもしれません。おそらくそうなのでしょうが、とにかく僕はライトノベルというものを読んでいても、最近はまったく面白いと思えないのです。僕が面白いと思うのは、所詮自我なのです。だからウィワクシアに強く惹かれ青酸ソーダに倦怠感を感じている。あるいはロートレックを読んで、そのトリックに対して卑怯な感覚を味わった。もちろんそれは技巧的に素晴らしいと感嘆させることだったのですが、僕にとってその作品の印象を最も強烈にさせたのは最後の主人公の独白だったのです。そこにある作者が言わんとする皮肉めいた部分に私は強く惹かれたのです。
 自我です。エゴです。私が文学に求めるのは。そして、それは恐らく主流にはならんでしょうなというのは分かっているのです。もしくはそれを伝えるために文章を書く人間達は、技術というものを身につけるのかもしれません。けれども、僕はもうそんなことにこれ以上の時間を裂くのがおっくうにかんじられるようになったので、頭の中で最もよく使う部分をフル回転させて多くの矛盾とともに文章を書いてみることにしてみました。
 だから言っていたでしょう、僕はこんな自分が嫌だって。誰一人して僕の孤独に気づいてくれる人も居なかったし、僕の涙ぐましいかっこつけに気づいてくれる人間も居なかった。そうして僕はこれからいじめられて進むしかない泥道についに足を踏み入れてしまったのですが、もうどうしようもないでしょう。おそらく今こうしているように、こんなことを言ったところで死ぬことは無いでしょうから、まぁ気楽にやります。
 もうとにかく僕は自分の言語を日本語に直すことをやめます。翻訳できる人だけついてきてください。疲れました。もう僕の書く文章のいっさいは終始こんな感じになるかもしれませんし、あるいはまたかっこつけをはじめるかもしれません。ぼくのかっこつけは、坊主頭を金髪にするようなそんな安井君の様なかっこつけなのです。