人間には愛玩種と野生種とがある


 色々なところで織田信雄という人間について見たが――あるいは私の思い違いで、まったく別の人物だったかもしれないが――その中にこんな言葉があった気がする。
 人間は中途半端に賢くてはいけない。中途半端に賢いくらいならばいっそ愚かなほうが良い。
 賢い人間はいずれ自分の身を脅かすであろうと周りに印象付ける。そうなってしまうとその賢い人間は、更に賢くなり生き抜いていくか、もしくはそれよりも賢い誰かに殺されるかの二択である。ならば、生き残れない程度の賢さなら内に秘めて愚かに生きろ、とそれくらいの意味だったと思う。
 つまりは、愛玩種的人間である。一方で、賢さと言う生存レースに生きる人間を野生種的人間であると言う事が出来るだろう。
 一方で全ての凶暴な動物がそうであるように、幼生というのは無条件に愛玩種の中に属することになる。そのことを考えた時、愛玩種的人間は幼生の中から脱出できていない、いわば人間として未成熟と言う意味合いを持って受け取られることが多いのではないか。
 それに対して私は明確な否定をできるだけの根拠は持っていないし、否定できるだけの野性性を自分の中に内在させているとは言いがたいが。そう言われることに、その幼生種が酷い憤りと自己嫌悪を持つことは知っている。愛玩種の多くは、野生種への変遷を不完全に終えてしまった負い目を少なからずその身の中にぶら下げているのだ。そして不完全に終わった今も、野生種への強い憧れをどこかに隠し持っている。
 野生種とは何か。彼らは、まるで自分の手足を自分の手足であるように使いこなす。
 言葉が間違っているかもしれないので、選びなおそう。
 彼らは自分の体を100%に操る術を知っている。もしくは、それは人間の100%とは遠くかけ離れた物かもしれない、が、彼らは自分の限界を知り、その限界をいつでも引き出し、世界に対して干渉するだけの資質を備えているのだと私は思う。
 あるいは、愛玩種も己の体を100%に制御しているのかもしれなくて、本質的な脆弱さによって愛玩種として成立しているのかもしれない。だが、実感としてそれは己の体を操れていないと言う屈辱感として我々に与えられる。俺はまだ本気を出していないんだという言葉がそれを端的に表している。恐らくはその認識で間違っていないように思う。僕達には本気に至るためのなにかしらのプロセスが欠落しているように思える。それは焦りでもないし、安定感でもないし、才能でもないし、プロセスとしか言いようのない何かなのだ。
 そしてそのプロセスを人間と言うものは獲得する術を繁栄の歴史の中で勝ち取ってきた。あるいは暴力的ではない肉体言語とでもいうだろうか、書籍にしてもそうだろうか。とにかく、人間はその術を伝える技術を生み出したのだ。
 しかし、それでも愛玩種は発生する。それはやはり彼らの中にある本質的な問題なのだろうか。あるいは構造が愛玩種を発生させるのか。
 仮定しよう。愛玩種が五人ある場所に集まって議論をしたとしよう。すると、一人は議論を取りまとめる議長になるだろう。議長は他の愛玩種に対してある種の権限を持つことになるのかもしれない。それが具体的などういう権利かを述べろといわれてあげられないあたりに自分の愚かさを痛感するが、議長はなにかしらの権利を持つだろう。あるいは他の愛玩種は彼を追い落とすことも可能だろうが、それに対して議長はなにかの手を打ち防ぐのかもしれない。その時点で、議長は、愛玩種からその世界での野生種に変遷する。
 そのようにして、ある種の閉じた世界において、愛玩種は生み出されていくのかもしれない。先の織田信雄にしても、最終的に彼は愛玩種から野生種へのチャンスを幾度となく勝ち取っていた。また、北条早雲毛利元就松永久秀といった、老境に至って野生への変化を遂げた人物達も少なからずある。すなわち、愛玩種からの脱出において、社会が彼らに与える影響と言うのは大きいのではないか。
 あるいは議長が選出されるのとは逆のプロセスを経て、社会はその安定のために愛玩種を発生させようとするのかもしれない。しかし、愛玩種として生きることを強制された野生種にとって、それは屈辱なのだ。そしてその屈辱が、愛玩種から彼らを野生種へと変えさせるかどうかの確証はこの世の中には何もない。
 最も安い野生への変化を促す物事は、社会を変えてしまうことである。新たに議長を選出すれば良いのだ。そうすれば、今の野生は愛玩に変わり、愛玩の誰かが野生を得ることが出来る。これが私達野生の愛玩種が社会を悪と叫ぶ心の本懐であり、一方で社会にどこまでも従順な愛玩種でなければならないと諦観とともに叫ぶのをやめてしまう心理的な要因なのかもしれない。あるいは、野生が愛玩に戻ることを恐れ、その身を固く守り、威嚇し、そして愛玩に戻った瞬間、死へと誘われるプロセスなのかもしれない。
 生まれついての野生種はそれすらも乗り越えて生きていくだけの力を持っている。さぁ、貴方は野生種か、それとも愛玩種か。己の逆境を誰の力にも頼らず乗り切ることが出来たなら、君はおそらくは野生種なのだろう。しかし、他の愛玩種の力を借りてその逆境を乗り越えたのだとしたなら、君は愛玩の皮をかぶった野生である他に生きる道はない。そうして得た野生は、社会を覆そうとする愛玩種の力に覆されてしまうだろう。愛玩種を捨てて得た野生が、野生を奪われて再び野生に生きていくことは出来ないのだ。
 寄った愛玩種が生きていくために必要なのはシステムだ。自分達よりも大きい何かの中に自分の身をおくことで、彼らはトークンを廻すようにして野生を得ることも出来るし、あるいは本物の野生と対等に渡り合うだけの力を得ることができるのだ。そして、そのシステムに愛玩種が入るためには、システムへの忠誠と、愛と、献身が必要不可欠なのだ。
 そのシステムの上に、ある一人の野生種が座っている場合もあるが。それはやはり野生種なのだ、野生種に愛玩種は愛玩されるほかに生きることはできないのだ。


 もう、何を言っているのか分からなくなってきた。とにかく、こんなことはもう考えたくもない。