「味噌舐め星人の達観」


 結局、俺と味噌舐め星人は、すき焼きに味噌を入れることを止めた。そうして俺達は甘ったるいすき焼きを食べ終えると、その余韻を楽しむようにそれとない雑談を交わし、そして、店長の家を去った。店長も特に引き留めるようなことはしなかった。彼もまた、今や家族を養う身だ。彼らを養う金を稼ぐためには、楽しさにかまけて遊び続けている時間なんて彼にはない。
 僕達を見送りに玄関までやってきた店長と祥子さん。これからどうするのかは知らないけれど、頑張ってくれよと彼は僕に言い、手土産に自分が作ったのだろう、葉の部分をビニールで固く縛った玉ねぎを俺に差し出した。おいおいこんなものを持って帰れって言うのか。せっかく気が利くようになったと思ったのに、とんだ俺の見込み違いだったか。すると、すかさず彼の妻がビニール袋を持ってきた。このままで渡してどうするのよ。もう、浮かれ過ぎよ、少しは落ち着きなさい。と、祥子さんは店長の頭を小突いた。
 ビニールん袋をぶら下げて、俺は元来た道を歩いて行く。夕焼けに街は沈んでいて、吹く風は何処か涼しい。明けの明星が仄かに暗くなった空に輝いたかと思えば、白い飛行機が黒い雲を吐いて彼方へと飛んでいく。
 寂しさがこみあげてくる情景だ。明日に対する不安を凝縮したような、そんな夜闇に俺はそれとなく沈んだ気分になった。そんな風に理由もなく落ち込んだところでどうなるというのだ。幼い子供じゃあるまいし。
 もしこの心の寂しさに対して理由を宛がわなければならぬなら、俺は店長との再会に対しての心境を上げることだろう。今の今まで、散々に会う事を恐れていた店長と、俺は今日、やっと決心を付けて会う事ができた。
 しかしどうだ。会ってみて何か変わったことがあっただろうか。店長と会うのが躊躇われて仕方がなくなるような、そんな衝撃的な出来事は、少しも起こりはしなかったではないか。まったく、何を俺は恐れていたんだろう。
 あるいは、俺は店長との出会いが、俺のこの停滞しきった人生を、再び前へと進ませる何か鍵になるとでも思っていたのだろう。しかしながら、店長との再会が俺にもたらしたのは、寂しい夜闇の中に人生の儚さを思わせただけだった。想像との余りの落差に、俺は今、軽い絶望を覚えているのだ。
「貴方のお友達というからどんな人かと思いましたが。意外と、良い人なんですね。奥さんや子供までいらして。とても良いお父さんという感じ」
「昔はもうちょっと酷かったんだぜ。誰かれ構わず色目を使ってさ。しかしまぁ。彼は確かに変わったよ。とってもいい男になったし、良い父にもなったと思う。信じてくれる人や頼りにしてくる人が居るというのは、男というのを著しく成長させるもんだな。少し、アイツの成長が妬ましいよ」
 俺だって、守らなくてはいけない人は居た。雅だって、十分に俺に守られてしかるべき存在になりえた。しかし、俺は彼女で自分の心に開いた隙間を埋めることしか考えられなかった。どうしてこうも、俺は弱い人間なのか。
 今からでも遅くない。俺は雅の為に、彼女を真摯に愛するべきではないのだろうか。ふと、そんなことを思った。できるのだろうかそんなことが。味噌舐め星人が生きているかもしれないと、知ってしまったこの俺に。

「味噌舐め星人の自覚」


 祥子さんがガスコンロを持ち、雅が鍋を持って部屋へと入ってきた。鍋をするつもりなのだろう。遅れて味噌舐め星人が、野菜のたっぷりと盛られた皿を持ってきて、最後に米櫃を持った店長のお母さんがやってきた。
「さぁ、今日はたんと食べていってね。美味しい肉、買っておいたから」
「美味しい野菜もよ、お母さん。この人、今日、彼らに自分の作った野菜を食べてもらうんだって、すっごく張り切っていたんだから」
 おいおいそういう恥ずかしい事は言わないでくれよ、と、店長。まぁ、そんなことだろうとは思っていたよと、俺は狼狽える彼を笑ってやった。隠してどうなるのよ、貴方の態度を見ていれば、そんなの誰だって察しがつくのよと、もっともなことを醤油呑み星人は言って、テーブルの真ん中にガスコンロを置いた。すかさず、雅がその上に鍋を置く。見れば、すでに鍋には具材がぎっしりと敷き詰められていた。茶色く濁った出汁、すき焼きだ。
「すき焼きなんてリッチだな。久しく食べた思い出がないよ。いいのか?」
「いいんだよ。友人との食事くらい奮発しないとね。苦しい時こそ、辛い時こそ、金の使い所という奴は考えなくちゃ。渋るだけじゃ始まらないよ」
 まったくもってその通りだ。昔からは考えられないくらい良い事を言うようになったじゃないか。女の子に色目を使い、格好をつけていた男の言葉とは思えない。そうだな、友達との食事くらいはいいものを食べなくては。
 火をつけるわねと、屈んで醤油呑み星人がコンロに火をつけた。ぼうと燃え上がる青色の炎。既に台所の方で、ある程度火が通してあったらしいすき焼きは、すぐにくつくつと音を立てはじめ、湯気をくもらし始めた。良い匂いが鼻をくすぐる。甘ったるく、食欲を誘う、すき焼きの香りだ。
「ねぇ、味噌を入れない? なんだか、少し、物足りない気がするの」
 なんでもないように、味噌舐め星人が口にした言葉に、はっとその場に居た人間が凍り付いた。すき焼きに味噌を入れるだって。そんな食べ方は、聞いたことがない。そんな事をしてしまったら、辛くてとても食べられない。
「良い提案だな。店長、俺にも味噌をくれないか。赤みそが良い」
 頭の中で自分がどれだけおかしなことを言っているのか、自分でもわかっていたが、条件反射的に俺は味噌舐め星人の言葉に賛同していた。
 どうしてそんなことを口にしたのか。痛々しい周囲の視線の中、俺と味噌舐め星人は自然と顔を見合わせた。どうしたんだろうか、俺達は。
「小皿で取り分けた分に味噌を溶くのなら別に構わないけれど。けど、どうしたのよいきなり。そんなの普通の人間なら辛くて食べられないわよ」
 醤油呑み星人の視線は、真っ直ぐ俺を見つめていた。彼女は既に、味噌舐め星人の正体を知っている。だからこそ、彼女が味噌を欲しがった事に、さほどの違和感は覚えていないのだろう。むしろ、俺が味噌舐め星人と同じく味噌を求めてきたことに対して、彼女は違和感を覚えているらしかった。
 そして、その違和感は俺の中にもあった。どうしたんだ俺。味噌を溶いたすき焼きだなんて、そんな塩辛いだけの物を食べてどうしようというんだ。
 まるでそう、そんなのを欲しがる打なんて、味噌舐め星人みたいだ。

「大人の定義」

 自分が大人か子供かと言われれば、子供だと即答する。俺は大人が負うべき責任を全て回避してここまで生きてきた人間だ。家族を持つこともせず、誰かを愛することもせず、誰かを守ることもなければ、その答えを知りながら目を背けてきたような人間だ。ツケもへったくれもなく、その覚悟の先延ばしは、確実に俺の人生に暗い影を落としているように思う。
 しかしながら、子供の時間にどのように区切りをつけるべきなのか、俺にはまだ分からなかった。あるいは、この心地よい、心地よかった時間に別れを告げることを躊躇っているのかもしれない。未練たらたら、まだ、待っていればあの時間が帰ってくるだなんて、そんな甘ったるい事を考えている。
「ポーズを取るのもおっくうなんだ。今までだって、俺はそんなことをしなくても上手くやって来れた。どうして今更、そんなことをしなくちゃいけないんだってね。分かってるさ。これでも一度はポーズを取ろうとは思ったんだから。確かに子供のままで俺達は大人になることはできないさ」
「どこかで残酷に子供だった自分を突き放す必要がある。もちろん、君の言うとおり、それができないというのもよく分かるよ。なんとかなるものならば、僕だって、何も代えることなく大人になりたいものさ」
 誰だって考える道だ。そして、誰もが挫折する道でもあるのだ。
 子供の延長線上で人生は終わらない。どこかで僕達は子供から大人へと変わらなければいけない。そのどこかが、結婚だったり子供の誕生だったり、埋めがたい存在の喪失だったり、それだけの違いしかない。
 しかしそんな切っ掛けもまた、受け止める本人の気持ち次第でどうにでもなる。店長はそれをしっかりと受け止めて、こうして、大人へと見事な変貌を遂げて見せた。対して俺はと言えば、未だにぐずぐずと、子供の自分を遊ばせている。甘ったれた男なのだ。文句ばかりが一丁前の子供だったのだ。
 本当に本物の大人という奴は、なにもいわずに変わって行く。どういわれようとも、なにをいわれようとも、確固たる己を軸に、ぶれることなくこの世界をその二本の脚で歩き、日本の腕で切り開いていくものなのだ。
「お前さ。ずるいよ、俺を置いてきぼりにして、一人で大人になってさ」
「健太くんだってそうだろう。彼も、いつの間にか、僕達の手を離れてから大人になった。けれど、君を置いて大人になっただなんて僕は思ってない」
 心のどこかで僕達は、まだ、あの頃の生活に、軌跡の様な子供自体の中に居るんだ。思い出よりもまだ生暖かい熱を伴った、子供の延長線上に、僕達は居る。それはやはり俺のせいなのだろう。俺が彼らの心の中に、未だに過去と決別できない、しこりを植え付けてしまっているのだろう。
 冷めた急須からお茶を椀に注ぐ。冷えたお茶を口の中に含めば、すっぱい渋さが口いっぱいに広がる。人生はこのお茶の様なものなのだろうか。いつしか甘く熱かった時代は過ぎ去り、苦く青臭さだけが残る、そんな冷たいものになってしまうのだろうか。そしてそれが大人になるということなのか。
「ゆっくりと整理していけばいい。君は、僕より、まだ随分若い」
 すまない、と、俺は店長に謝った。店長はただ優しく笑っていた。