「B太の激励」

 サインを貰い、列から離れた俺と雅はB太のサインを求める人の列から離れた。並んだ時はずいぶん最後の方に並んだものだと思ったが、並んだ時よりも更に長い列がいまだに続いているのを見るに、早い方だったのだろう。それにしたってすごい人気だ。ジャズなんて、あからさまに売れなさそうなさそうだというのに、これだけの人をよく集められた者だと、ほとほと感心する。加えて、並んでいる人が皆、B太のリリースしたCDを手にしている所がまた凄い。下手なアイドルなんかより、よっぽど人気なんじゃないか。
「凄い人気です、ね。まだ、行列が続いてますよ」
「あぁ、この状態になる前に並べてよかったよ。Tシャツにサインして貰ったってのは少し残念だがな。こんなことなら俺もCDを買えばよかった」
 そんなお金、どこにあるっていうんですか。そんな目で雅が俺を睨み付けてきた。服を買うお金はあるが、娯楽品に使うお金はない。なにせ、今は俺が雅に養ってもらっている状況なのだ。真面目に働いてきたおかげで、失業保険は受け取れるが、元居た会社が会社だけに、貰える額はたかが知れている。もうあと一か月すれば、それも貰えなくなってしまう。そんな状況で、CDを買う余裕があるのかと言われれば、まぁ、無駄だと言うしかない。
 もちろん、服が買えない生活が精神的に苦しいように、CD一つが買えない生活というのも酷い物だ。ゆとりのある生活をなんとかして取り戻したい物だね。かといって、B太のように日がな一日拘束されるような客商売も考え物だが。彼は音楽が好きだから耐えられるだろうが、俺ならば、三日ともたずにあんな仕事は投げ出しているだろう。なんて、そんな才能の欠片だってありもしないくせに、ここまでどん底の生活をしておいて、俺と言う奴はまだ懲りていないらしい。まだ、自分が何か特別な人種であると、思いたいらしい。呆れたものだよ。この調子じゃ、まだまだ周りに迷惑をかけるな。
 ふと、携帯電話のアラームが鳴った。なんだろうか、まさか、B太からかと思って懐から取り出すと、メールの送り主は醤油呑み星人だった。明日の来訪時間について、少し用事が出来たので半時間ほどずらせないか、という主旨のメールに、俺はおうと返事を書くとすばやく送信した。醤油呑み星人は、こういう確認事項のメールを送信した時、かならず自分からメールを止めるタイプの人間だ。帰ってこないだろうと予測して、俺は携帯電話をズボンのポケットの中に押し込んだ。押し込んで、ふと、そう言えば、B太のアドレスをこの携帯電話には入れていたんだったなと思い出した。
 仮にかけてみたとして、彼は俺の電話に出るだろうか。唐突にそんなことが気になって、俺はその場に立ち止まった。愛想の良い彼は、自分のファンを優先するか、それとも俺を優先するか。決まっている。アイツは目の前に居る人を大切にする人間だ。第一、携帯なんて待合に置いてきているさ。かけるだけ無駄だ。そうは思うのだが。俺はその誘惑に打ち勝てなかった。
 はたして、B太は電話を取らず、延々と目の前のファンとの握手をし続けた。しかし、途中一度、顔を上げて俺の方を向いた。それが、今の彼ができる、俺に対する最大限の挨拶だったのか。俺にはよく分からない。