「B太とサイン」


 服屋の前にはみるみるうちに行列が出来上がっていった。会場である店の中に居たはずなのに、入り口に辿り着いた時には、既に店の外に出れない程の人で通路が溢れていた。これは、ここの店以外にスーパー内に出店している所にしてみれば、いい営業妨害だろうな。それでも、俺は目を凝らして、人の海の中に最後尾のプラカードを見つけると、そこに向って人の波の間を進んだ。B太に会いたい。そう思ったのだ。こうして、サイン会や握手会で顔を合わすのならば、有名人の彼と会うにしても気兼ねがないからな。
 観鈴に会いに行くにしても、今の俺なぞが行っても彼女を無駄に心配させるだけだ、気が引ける。店長に会いに行くには、余りに今の時分は惨め過ぎるし、一人重傷を負った彼にどんな言葉をかければいいのか分からない。こういう時に、もっとも気軽に会う事の出来たB太はといえば、今や知る人ぞ知る有名人。そうやすやすと会える人間ではなくなってしまっていた。俺も人間だ、唐突に人恋しくなることもある。懐かしい友人と言葉を交わしたくもなる。それがしたくてもできないというのが、どれほど辛いことか。
 店の奥から出てきたB太は、もうすっかりとコンビニで働いていた時の面影を残していなかった。無理もない、だって、彼はコンビニで働いていた頃はモヒカンだったのだから。今や、そこそこに生えそろった髪の毛を、良い感じに波打たせて、爽やかな好青年と言う感じの彼が、つい数年前は金髪にモヒカンヘッドのパンク野郎だったなんて、誰が想像できるだろう。
 昔、彼はこのコンビニで働いていたんですよ。あるいは、俺と一緒に働いていたんですよと、当時の写真を誰かに見せたとして、いったい何人の人が素直に信じるものだろうか。恐らく、自分が写真を見せられて説明される側だったなら、まず信じない話だろう。まず、間違いなく。
「並ぶん、ですか。この人、能美健太さん、ですか。私は、何をしている人か、よく知らないん、ですけど。貴方は知って、いるん、ですか?」
「ジャズシンガーだよ。一度くらいは聞いたことあるよ。つっても、俺もつい最近知ったんだけれどな。せっかくだし、並んでおこうぜ」
 サインを貰う相手が俺の友人でバイト先の後輩だったとは、雅には言わなかった。それを言った所で、彼女が騒ぐような女性でないというのは知っていたが、周りが騒ぐかもしれない。いや、考え過ぎか。ただなんとなく、俺はB太と対面しても、何も言わずに去る様な、そんな気がしたのだ。久しぶり、覚えているか、なんて、言葉をかけずに、さりげなく、サインを貰ったらただ一度握手をして、そのまま帰る。久しぶりの再会、こんなことでもなければ、滅多に会えぬB太だというのに、なんとももったいない。けれどもなんというか、そういう風に立ち去るのが、正解の様な気がしたのだ。
 俺達の番はすぐに回ってきた。俺はかねてより思っていた通り、くたびれた服の胸の辺りをB太に突きだすと、サインを描いてもらった。小馴れた手つきで、まるで大物スターの様に、B太はサインを描き上げ、得意の人の良い笑顔で俺に握手を求めてきた。何も言わずに握り返し、その場を俺は去ったが、ふとサインを見ると、そこには先輩へとしっかりと書かれていた。