「僕の甘味の少ない幸せな青春その十二」


 リビングに降りたが、そこには観鈴も、詩瑠の偽物の姿もありはしなかった。自分たちの部屋で寝ているのだろうか。それとも二人で何処かに出かけてしまったのか。どっちにしろ、顔を合わすのが気まずい僕にとっては丁度良かった。もう一度彼女たちが居ない事を確認すると、僕はリビングに入って、そのままテーブルを横切ってキッチンへと入った。銀色の調理台の上に盆を置くと、申し訳ないと思ったが、鍋の中身を三角コーナーに捨てた。
 蛇口を捻って土鍋を洗う。作られてから随分と長い時間僕の部屋の前におかれていたらしい。固くなったでんぷんを、土鍋からこそぎ落とすのには少し力が要った。最後に泡をしみこませたスポンジで、丁寧に鍋を洗ってやると、僕はそれを水切り籠の上に載せて、代わりに籠の中にあったグラスを手に取った。喉が渇いた。冷蔵庫の扉を開けると、中から麦茶を取り出す。
 茶色の液体で満たされたグラス。握れば心地よく手を冷やし、喉を鳴らして飲み干せば喉を潤す。胃の中から麦の匂いを引き上げて、僕はグラスを軽く洗って、水きり場にそれを戻した。二杯目は、まぁ、いいだろう。
 リビングに居座る理由はなかった。見たいテレビもないし、新聞を見るほど世情に興味もなかった。強いて言うならば、僕がそこでソファーに座ったのは、彼女ともう一度話がしたかったからかもしれない。彼女というのは、偽物の詩瑠だ。何だかんだで感情的になってしまった僕は、今まで一度だって彼女とまともに会話をしたことがなかった。こうして、僕の身を気遣っておかゆを作ってくれる程度には、優しさを持ち合わせているのだ。少しくらいは話を聞いてやってもいいかもしれない。もちろん自分から彼女に話を聞きに行くような行為はできはしない。許しはしたが、認めてはいないのだ。
 一時間ほど、見たくもないテレビを眺めて、俺は彼女がリビングに降りてくるのを待った。一本分のドラマを見終わったころ、どうやら降りてこないだろうという事が分かって、僕はテレビを消すと、ソファーから立ち上がった。まぁいい、これから一緒に暮らすのだ、まだ時間も機会もあるだろう。
 階段を上って自分の部屋の扉を開ける。ふと、隣の部屋を覗こうかと考えたが、もし起きていたらウザったい展開になるだろうと思ってやめた。
 部屋に戻ったといって特にやることもない。本棚に並べられている漫画の中から、最近お気に入りの作品の四巻目を引きだすと、それを持ってベッドの上に戻る。寝転がって掲げるようにして本を開くと、何度も何度も読み返したそれを、再び読み始めた。すぐに笑いが口から漏れた。こういう気分の時には、ろくでもないギャグ漫画でも読んで、気分を入れ替えるに限る。
 一しきり笑ってすっかりと気分をよくした僕は、ふと、ここ暫くというもの、自分を慰める行為をしていないことに気が付いた。詩瑠が死んでまだ数日しか経っていないというのに、生理現象という奴は怖い。我慢しようかとも思ったが、下手にここで我慢すると、色々と溜まっている他のストレスと相まって、僕がはどうにかなってしまいそうな気がした。なので、下手に自分の内にある欲望を抑圧しないこと決め、僕はパソコンの電源を入れた。
 そうだな、今日は実写でも見たい気分だ。