「僕の甘味の少ない幸せな青春その二」


「ふざけるな、ふざけんじゃねえよ。父さんも、母さんも、先生も、よってたかって俺をからかってなんだってんだよ。なぁ、詩瑠は死んだんだよ。冷たくなって動かなくなったんだよ。俺は見てたんだ、詩瑠が息をしなくなるその瞬間まで、ずっと彼女の事を。俺は触れてたんだ、彼女の肌から温もりが消えて、人じゃない何かになっちまう瞬間まで。こんな、こんな、こんな奴が詩瑠だって。どうやったらそんなふざけた冗談を思いつけるんだよ。あんたらの大切な娘だろう、あんたの大事な患者だろ、俺のかけがえのない妹なんだぞ。それを、こんな訳の分からない奴連れてきて、生きてましただって、実は生きてましただって。それで誰が喜ぶんだ、俺を騙して誰が喜ぶって言うんだ。こんな奴に、詩瑠の代わりが務まるかよ、馬鹿野郎!!」
 近くにあったパイプ椅子を蹴り上げる。それは病室の端まで飛んで行き、本棚にぶつかって横になって倒れた。何をするのと僕に掴みかかる母を振り払えば、今度は父さんが僕の胸ぐらを掴んだ。何をするんだ、と、せっかく詩瑠が治ったっていうのに。寡黙な父さんにしては、今日は饒舌によく喋るじゃないか。すると、アンタも偽物か。この妙に詩瑠に優しい母さんも。
 いいかげんにしろ、と、父さんは僕の頬を打った。握りこぶしで、力いっぱいに。おそらく、父さんに胸ぐらを掴まれたのも、殴られたのも今日が初めてだろう。言葉こそ少ないが心優しい父が、僕にそんなことをするだなんて、想像できなかったし、信じられなかった。けれども、殴られて我に返れるほど、老いても居なければ納得もできていなかった。やった、な、と、俺は父のネクタイを握りしめると、引っ張って、その鼻頭に拳を叩きつけた。
 嫌な音がした。肉が潰れる音だ。血が噴き出す音だ。綺麗に眼鏡を飛ばした僕の拳は、父さんの、日本人にしては高く整った鼻を、真っ赤に染め上げてへしゃげさせた。初めて人を殴ったにしては、上出来じゃないか。
 いやぁっ、と、母さんの叫ぶ声。僕がネクタイを外すと、父はゆっくりと後ずさりリノリウムの床に尻餅をついた。何をするんだねと激昂する医者。そして、少しずつ声量を上げるように、泣きはじめるベッドの上の自称妹。なんだか、僕はとんでもないことをしてしまった気分になって、逃げ出すように詩瑠の病室を後にした。待ちなさいという医者の声が後ろから聞こえてきて、急かされるように、俺は走り出した。もう、駄目だ、俺は、駄目だ。
 エレベーターでは捕まってしまう。階段を駆け下りて、一般外来の待合所を駆け抜け、病院の庭に出て、そして、そのまま駆けて駆けて。
 気づくと僕は駅の近くにある商店街の前に居た。縁日になると、よく、詩瑠と一緒に遊びに来た、父さんと母さんに連れられて通った商店街。
 何故、あの時のまま僕達の時間は止ってくれなかったのだろう。
 無慈悲なまでに唐突に訪れる人の死を悲しんでいるのではない、変わりゆく現実の残酷さを嘆いているのでもない、僕の横をせせら笑って通り過ぎて行く幸せを憎んでいるのでもなければ、ただただ、戻れぬことが悲しい。
 あの日、あの時、あの幸せだった家族に、僕たちに、もう決して、どれだけ望んでも、戻ることはできないのだ。詩瑠は死んだ。家族は壊れたのだ。