「僕の甘味の少ない幸せな青春その一」


 詩瑠は小児癌から奇跡的に回復した。父さんが大枚をはたいて購入した、海外の未認可薬が効いたのだと、詩瑠の主治医は言っていたが、僕にはにわかに信じられなかった。何故なら、詩瑠は死んだのだ。僕の目の前で冷たくなって死んだのだ。あの冷たさは一晩経った今でも覚えている。この掌が、指先が、覚えている。それが再び温かみを取り戻して、復活するだなんて。馬鹿を言うな、そんなことはあり得ない。あり得るはずがないのだ。
「どうしたんですかお兄さん。私の顔に何かついていますか?」
「……いや、何も。というか、お前は誰だ、本当に詩瑠なのか?」
 何を言っているのと、母が言った。貴方の妹じゃない、それ以外の誰だというのと、彼女はまるで信じられない物でも見るような視線を僕に向けた。貴方にだけは、彼女を詩瑠だと断じられたくはない。観鈴の事で手一杯で、ろくに僕たちの相手なんてしてくれなかった貴方には。僕は彼女以外の人間に、本当にこのベッドで寝ている女が、詩瑠なのかと目で問いかけた。そうして僕は、父さんに何を言っているんだという顔を向けられてようやく、どうやらこの目の前で幼児のような笑顔を見せる女が、妹なんだと納得した。
 その僕には詩瑠とは思えない女は、その手で目玉を覆うと、ぐしぐしと力強く擦ってみせた。涙が出ていないので、さっぱり俺には彼女が何をしているのか分からなかったが、どうやら泣いているらしかった。しかも嘘泣き。
「酷いです、酷いです。お兄さん、酷いです。妹のことを忘れるなんて。私のことを忘れるなんて。酷いです酷いです、酷いお兄さんです」
 ほら、泣いているじゃないの、と、母が眉を吊り上げて俺に言った。
 そんなことを言われても困る。というか、泣いていないだろう、これ。少なくとも、本物の詩瑠だったならば、こんな安っぽい涙は流さないはずだ。
 本当に誰なんだこの女は。俺の、詩瑠の場所に突然居座って、何様のつもりなんだ。ふつふつと湧き上がる怒りに、俺は手に持っていた大学検定の合格通知を握りつぶした。死んでしまった詩瑠に手向けるために持ってきた大学検定の合格通知。決してこんなふざけた奴に渡すために持ってきた訳ではない合格通知。そうだ、これを渡せば、彼女が本当に詩瑠か分かるはずだ。
「詩瑠、これなんだか分かるか。お前に渡すために家から持ってきたんだ」
「それは……。あっ、あっ、やった、受かったんですね。受かってたんですね、大学検定。お兄さん、ありがとうございます。どうなったか、とってもとっても気になっていたんです。あぁ、よかった、受かってて」
 僕の手から握りつぶされた大学検定の合格通知を奪い取ると、彼女はしげしげとその文面を見つめた。御園詩瑠。見てください、ちゃんと私の名前が書いてあります。合格ですよ、お兄さん、やった、やった。ベッドから飛び出した彼女は、僕の手を取ると、ウサギのように鬱陶しく跳ねまわる。駄目よ詩瑠、よくなったからって、そんな激しく動いてはと、すぐに母親に引き離されたが、彼女はそれでも、僕と喜びを分かち合おうと笑顔を向けた。
 その笑顔が気持ち悪くて、俺の知っている詩瑠とは決して重ならなくて、俺はこの場に居る全ての人間に向い、ふざけるなと大声を張り上げた。