「味噌舐め星人の悪夢」


 顔を上げると、そこに詩瑠の姿はなかった。あるのは霧がかった森と、その霧を発生させている大きな滝しか目に入らなかった。その唯一視界にある滝の青色も、森の緑色も、白い霧が浸食し、色を奪っていく。やがて俺の視界は全て白色で覆い尽くされた。いつだったか、塩吹きババアとなった詩瑠が、俺に見せた夢の様だ。けれどもあの時とは雰囲気が違う。この白色の景色の中に蠢いて、微かな風を起こしている何者かの圧倒的な存在感。
 なんだ、いったい何がこの白い世界の中に存在しているのか。
 輪郭すらも白く塗りつぶされた世界で、俺は、その何かを捉えようと目を凝らした。凝らして、ようやく、白い世界の中に砂のように細かく七色に輝く粒子が、流れるように動いているというのに気づいた。この世の光景とは思えぬその砂の動きに、目は見開き、喉は鳴った。現実ではない、これは夢だと分かってはいたが、俺はその幻想的な光に心を奪われてしまった。
「お前が娘の兄か」
 霧の中から声がした。男とも女とも判別のつかない、不思議な声だった。娘というのが誰の事を差しているのか分からない。兄かと言われても、紆余屈折を経て、俺には三人も妹が居る。詩瑠か観鈴か、それとも味噌舐め星人か。どうでもいいが、そんなどうでもいい思考で頭の中が錯綜して、俺はその霧の中から響く声に、すぐに答えてやることが出来なかった。
 それで白い霧の中の何かは機嫌を悪くしたらしい。光る砂の動きがにわかに早くなったかと思えば、はっと俺の頬を掠める。砂が擦れた所を触れてみれば、手に赤く血が滲む。ふと、浮かび上がった鏡に、俺の顔を映してみれば、砂が触れた頬は赤く擦り切れていた。そして、その鏡がふと暗転して黒い円になった時、俺は霧の中に蠢いていたモノの正体を認識した。
 白い霧だと思われたそれは霧ではなく体だった。七色に輝く砂は、光を跳ね返し合って輝く鱗だった。鏡は鏡などではなく瞼、穴は穴などではなく瞳孔。混沌すら飲みこむ暗い闇をたたえた蛇の目。そう、俺は気づかぬうちに白い大蛇の腹の中に居た。白い大蛇に囲まれて、そこに立っていた。
「もう一度聞く、お前が娘の兄か。娘が恋焦がれ、私に復活を願った兄か」
「知らんねそんなことは。娘と言われても、顔を見んことにはなんとも。しかしまぁ、その娘というのがさっきアンタが滝つぼの中で大事に大事に抱いていた娘だってんなら、確かに、その娘は俺の妹で、俺はその娘の兄だよ」
 また、白い砂が俺の頬を打った。無意味にでかい図体をしておいて、随分と器用に人の体を痛めつけてくれる。一つその胴を思い切り蹴ってやろうかと思ったが、気づけば先手は既に打たれていた。足が、締固められている。
「矮小な人間如きが、口を慎め」
「悪かったね。俺は誰に対してもこんな感じなのさ。金持ちの偏屈爺さんだろうが、愛すべき同居人だろうが、妹の世話になってる神様だろうがな」
 だから、気に入らないならどうぞ絞め殺すなり食い殺すなりご自由に。そう言ってやると、白い大蛇は地面を唸らせて、俺に強く巻き付いた。そうそう、暴力は躊躇なく振るうもんだ。流石は神様、分かってらっしゃる。