「ビネガーちゃんは俺と旦那の通訳をする」


 その男は赤い四足のソファーに背中をしっかりと付けて座っていた。皺の深い目元に白髪の髪。口元に髭はなく、こけた頬がむき出しになっている。厚ぼったい瞼は瞳を覆っていて、俺たちが入ってきたというのに、開く気配が感じられない。涼しげに、まるで日光浴でもしているようだ。
 人を拉致するように命令しておいて、そうして実際に拉致させておいて、随分と快適そうにしていらっしゃる。殴ってやりたい気分になり、ホームレス男やビネガーちゃんが止めるのを無視して、俺はその男に近づいた。近づいて、拳を振り上げて、ふと、その顔に心地違和感を覚えて、俺は動きを止めた。なにがおかしいのか、と、言われても、まだよく分からない。とにかく、俺は妙だなと、その男の顔を見た瞬間に思ってしまったのだ。
 男の眼が開かれて、その違和感の正体が分かった。白髪なので、一見しただけでは分からなかったが、この男は西洋人だ。ブルーの、宝石のような瞳が俺の顔を見ていた。興味深そうに、品定めでもするように。そして、にっと、いっそ憎らしく思える様な笑顔を見せると、彼は俺の肩を二度叩いた。
 聞き取りづらい言葉を男が発した。英語なぞ、しばらくやっていない俺には、彼が何と言っているのか、さっぱり分からなかった。とりあえず、ソーリーと言ったのは間違いないが。何をいったい謝っているのだろう。俺の鼻を折らせたことか、それともここに無理やり連れてきたことか。
「すまんすまん、腹もこなれて心地よく眠くなったものでな。お兄さんが来るのは分かってたんだけども、つい眠ってしまった。ごめんよ。って、言ってやんすよ、お兄さん。よかったすね、簀巻きコースじゃないみたいで」
 見るからに馬鹿そうな顔をしたビネガーちゃんが、あっさりと爺さんの言葉を訳してしまうなんて。いや、きっちりと彼女が訳したかどうかなんて、ここに居るやつの中で、英語がまともに分かる人間が居ないのだから、誰にもわからない。大方適当な事を言っているに違いないだろう。
 と、いう事にしたい。さっきから、何やら老人とビネガーちゃんが英語なのかも分からないくらいの早口で話し込んでいるが、きっと、そういうネタなのだと思いたい。ははっ、二人ともノリノリだな。しかも、ホームレス男まで仲間に入って、ぺらぺらと。お前、そんなスキルがあるんだったら、公園うろつくの止めて、外国語教室の先生にでもなっちまえよ。
「いいよ、アンタらが語学が達者なのは分かった。それで、いったいなんの用なんだよ、外国人で金持ちの爺さんが、日本人で貧乏人の俺なんかに。あれか、雅もこいつと同じで、お前の大切な囲い者か何かなのか」
「ちゃいますよがな、囲い者とかじゃないですってば。本当、失礼ちきちきの分からず屋の傍若無人、暴君な辛いお菓子でおまんのやからお兄さんは」
 いいからお前はとっとと俺の言葉を爺に伝えろと、俺はビネガーちゃんの頭を小突いた。小突いたその時、背中からさっと血の気が引いて、俺は身震いした。俺の手をじっと睨み付けている目の前の老人。その顔は、先ほどまでの好々爺の物ではなく、明らかに別人、しかも、人の温かみを感じさせない、冷たい蝋人形のような、そんな張り付いた顔だった。