「僕の不幸せな青少年時代 その十一」


 彼女との関係は奇妙な物だった。それは、僕と高校時代に軽い肉体的接触を行っていたマサコとの関係とも違った。マサコが肉体という機能を用いて僕という存在を知覚、あるいは僕との意思疎通を計ろうとしたのに対して、彼女は純然に対話による僕との交渉を求めている、のかもしれない。なんにせよ、僕と彼女の間には埋めがたい溝の様なものがあり、それを埋めるために、マサコの様に肉体的な橋をかけることよりも、叫びあう事の方が彼女にとっては、好まれるコミュニケーションの形なのだろう。あるいは、僕のかける橋があまりにも貧相で、渡る気にもなれないのかもしれないが。なんにしても、遠い。やはり他者と自分の距離は遠いなと実感せずにはいれない。
 やがて年も暮れ、明けて、成人式が終わり、センター試験まで一週間という時期になった。この頃になると、流石に僕も小説を読むのを諦めていたのだが、彼女と一緒に帰ることは止めなかった。僕は決まって、彼女を近くの駅まで送ると、それから妹の病室に向かった。来る時間が遅くなったことに詩瑠の奴は妙に勘ぐったが、補習を受けているという事にして、上手くはぐらかした。根が素直な詩瑠は、僕の嘘をすんなりと信じて、偉いねお兄ちゃんと微笑んで、僕の頭をそのやせ細った腕で撫でようとするのだった。その時ばかりは、この娘が苦しんでいるというのに、こんな事をしていて良いのかと、罪悪感が僕の胸の中を占拠して、居た堪れない気分になった。
 そんな居た堪れない気分になった次の日、僕は彼女を家へ呼んだ。試験は明後日という時に、僕と彼女はリビングで呑気にコーヒーを飲んでいた。というのも、予期せずして予備校が休校になったからだ。試験が迫り神経が過敏になった生徒の一人が、その日校内で傷害事件を起こした。同じ部屋に居た生徒の何人かをカッターナイフで刺して軽傷を負わせ、次に講師詰め室に乱入してあまり講義の評判宜しくない太った講師の目玉を刺した。そして、逃げ遅れた既婚の女講師を部屋に閉じ込めて、警察が来るまでの二十分の間凌辱し続けたのだ。本当にどうかしている。十代の犯行ではないなんて思っていたら、犯人は二十代も後半を過ぎていて、かれこれこの予備校に七年も通っていたのだという。警察に連れられて予備校を後にする彼が、よくも俺を騙しやがって、何が今年こそ絶対合格できるだ、ふざけんなよ、と、誰に向かうとでもなく予備校に向かって叫んでいたのが、とても印象的だった。
「こういう時期だもの、ヒステリックになる気持ちは少し分からないでもないわ。けど、あぁいう風にはなりたくないわね」
「それはそうだけど、きっと、彼だってなりたくてなった訳じゃないさ。ただ、ちょっと運がなかっただけだよ。もしかしたら、あの場であんなことをしでかして居たのは、僕かもしれないし、違う誰かかもしれない」
「随分と優しいことを言うのね、貴方って。そんなの、誰だって心の底には腑に落ちない物を持ってるでしょうよ。その感情に飲まれてしまって、実行に移してしまった、彼の弱さが問題なんじゃないの」
 そうかもしれないねと彼女に言うと、僕はコーヒーを飲んだ。悪夢のような現実にコーヒーの苦みはいつもと変わらない日常を取り戻してくれる。