「僕の幸せな幸せな子供時代、そのにじゅうなな」


 救急車を呼んだ。どうやって呼んだかも思い出せないくらい、僕は動転して電話をかけて、家に救急車が到着するまでの間、ただただ、詩瑠の手を握りしめていた。息の荒い詩瑠の顔にはびっしりと汗が染み出して、僕の手を握り返す力は弱弱しい。目も開けず喘ぐ彼女。けれども、先ほどの一言を除いて、泣き言の一つも吐かないそんな姿を見て、僕は詩瑠が人一倍に我慢強い子だというのを改めて思い知った。学校で孤立して、一人さびしく公園で遊んで居た詩瑠、それを家族に言い出せなかった詩瑠、僕がその事を知って毎日迎えに行ってあげるのをなにより喜んでくれた詩瑠。そうだ昔から彼女はいつだって、僕たち家族にだって遠慮して一人で我慢してきた。
 どうしてもっと早く気付いてやれなかったのだろう。長く詩瑠と一緒に暮らしてきたというのに、どうして彼女の辛さに気づいてあげられなかったのだろう。なぜだか後悔ばかりが頭に浮かんだ。止めろ、縁起でもない、少し体調が悪くなっただけだ。きっと詩瑠は良くなる。そう、思いたいのに、僕の体は、詩瑠の身を蝕んでいる病魔を恐れ憎しみ、そして悲しみに震えていた。詩瑠、どうしてお前がこんな目に合わなくちゃいけないんだ。
「お兄ちゃん、どう、した、の。泣いて、いる、の? やだな、別に、まだ病気が何か、分かった、訳じゃ、ないの、に」
「違う、違うんだ。お前の病気に気づいてあげられなかった、それが情けなくって。お兄ちゃんなのに、お前のことずっと見てたのに」
「しかたない、よ。だって、分からない、よう、気を付けて、たから」
 詩瑠を不安にさせまいと嘘を吐いた僕に、それを見透かしたように慰めの言葉をかける詩瑠。そうだ、まだ、病名は分かっていないんだ、きっと、大丈夫だ。詩瑠は元気になる、そう思って力強く詩瑠の手を僕は握る。
 痛いよ、と、呟いて、詩瑠は苦しいというのに、また笑顔を僕に見せた。
 サイレンの音が近づいてくる。いつになく聞いたことのない大音量のサイレンが玄関の方で鳴り響き、不意に止まった。代わりに数泊置いて我が家のチャイムが鳴り、僕は詩瑠に待っていてくれと声をかけて玄関に向かった。
 白い服を着た救急隊員が待っていて、患者はどちらですかと聞いた。奥のリビングですというと、あれよあれよと言う間に、担架を持った隊員達が僕たちの家に走りこんだ。失礼ですがご両親はご不在ですかと、僕の前に立った救急隊員が訝しげに聞いた。はい、と、答えると、それではご両親に連絡はと続けざまに聞いてきた。僕は、もうしましたと答えると、僕は逆に、妹は大丈夫でしょうかと彼に尋ねた。そんな事を聞いてもどうなるものでもないというのに。彼は病人を病院まで運ぶ仕事をしているのであって、病人の診断を下す人間ではないのだ。分かっている、そんなことは分かっていた。
「患者を診ていないのでなんとも言えません。とりあえず、病院で精密検査をしてみないことには。お兄さん、で、よろしいんですね。とりあえず、貴方も一緒に救急車の方に乗って、病院の方までついてきてください」
 妹さんの保険証も忘れずに。淡々と、こなれた様子で言う救急隊員。言葉の軽さが詩瑠の命の軽さに感じられて、僕は、少し彼の言動に苛立った。