「僕の幸せな幸せな子供時代、そのにじゅうろく」


 この頃よく思うのは、もう既にコロ太はコロ太じゃないなという事だ。
 最初拾ってきた時には、腹の上で寝かせて湯たんぽ代わりにできた子犬さんは、詩瑠と僕、時々観鈴の愛情を受けてすくすくと育った。早く大きくなれとは植物でないから流石に願わなかったのだが、それでも彼はすぐに大きくなった。元々そういう犬種だったのか、柴犬よりも大きく、土佐犬よりは小さく育ったコロ太は、コロコロなんて微塵も感じられない、どっしりとした風貌の立派な犬になったのだ。本当、いつまでも子犬の頃のままで居てくれるはずがないのに、なんでこんなにがっかりとした気分になるのだろう。
 もっとも、大きくなってもコロ太の人懐っこい所は相変わらずだった。まるで番犬には向かない駄犬だったけれども、そんなことはどうでも良くなるほど、愛玩動物としてのコツと言うか本懐の様な物をこの犬は弁えていた。先ほど僕が近づいた時なども、尻尾をこれでもかと振って、駆け寄って来るものだから、思わずそれだけで僕は楽しい気分になった。ほら、コロ太散歩に行くぞと縄を小屋前に立てた棒から外すと、ばぅ、と大きく吠えてコロ太は舌を出して僕を見上げた。目を輝かせて、なんとも分かりやすい犬だ。
 コロ太の力は前に僕が散歩に連れて行った時よりも強くなっていて、子犬の様にうろうろと、動くものにつられて駆けて行く彼を制御するのは、男の僕にも少しくたびれるものがあった。こんな散歩を、詩瑠は毎日やっているのかと思うと、ほとほと感心する。赤い横断歩道を渡ろうとするコロ太をなんとか引き留めると、僕は額の汗をぬぐった。コロ太、お前が詩瑠を疲れさせた原因か。もう子供じゃないんだから、少しは分別のある行動をしろよ。
 詩瑠から頼まれた散歩コースを周って家に戻ってくると、時刻は既にいい感じにお昼前となっていた。幸運にも、出て行った先で知り合いと会う事のなかった僕は、コロ太を再び小屋の前に結わえると、そのまま裏口から家の中へと入った。ただいまと、虚しく家の中に僕の声が響き渡る。どうやら、僕の安静にしていろという言葉を守って、詩瑠は大人しくしているらしい。
 そんな彼女にはご褒美として、今日はオムライスでも作ってやるとしようか。コロ太の毛を落として、ポリ袋に入れた汚物を、汚物入れの中に放り込むと、僕は便所で手を洗って台所へと向かい、また手を洗った。
 おにいちゃん、と、小さな声が聞こえた。最初は幻聴かと思って無視していたが、何度も何度も聞こえるので辺りを探してみると、リビングの入り口に詩瑠が立っているのが目に見えた。なぜだろうか、先ほどより顔色が悪くなっている。大丈夫かと、今切っている玉ねぎをそのままに彼女に近づこうとしたその時、詩瑠は黄土色の液体をリビングの入り口に吐いて倒れた。
 薄らと紅色がかかっている。漠然としていた不幸が、今ここで一つにまとまり、一つの不幸として僕の前に現れた、カタカタと震える詩瑠の体。白い吐しゃ物に交じって溢れ出た赤い血が得も言われぬ憂鬱な気分に僕をした。
「詩瑠、いったいどうしたんだ!? お前、まさか、僕に黙ってテレビ見たりゲームしてたんじゃないだろうな」
 してないよと、息もとぎれとぎれに詩瑠は僕に言った。