「僕の幸せな幸せな子供時代、そのにじゅうよん」


 翌朝になっても詩瑠の熱は下がらなかった。高校に休むと連絡を入れて、詩瑠を着替えさせると、彼女を連れて僕はかかりつけの病院に向かった。
 六十を越えた白髪の先生が運営するその病院は典型的な町医者で、薬の処方も病院内でやっているような所だった。正直な所を言うと、僕は過去にインフルエンザと持病の扁桃腺を誤診されていて、余りこの医者の事を信用していなかった。まぁ、病か寿命かそれともボケか判別の曖昧な、老人相手の商売である。そうなってしまうのもしかたないのかもしれない。それでもここに来るのはかかりつけだという事、近くにここしか病院がないという事、そして信用はできないが人間としては先生を嫌いではなかったからだ。
 早朝だというのに病院は大勢の老人で溢れかえっていた。ゲートボール場よりも人が集まっているんじゃないかなんてことを思いながら、僕は受付に詩瑠の名前を書いた。熱はどうですかと聞かれたので今朝測った体温を伝えると、かけてお待ちくださいと受付の看護婦さんはにこやかに言った。
「ごめんね、お兄ちゃん、学校、休ませちゃって」
「気にするなよ。別に、一日行かなくたって、勉強なんてどうにかなる」
 どうにかなるというか、どうでもいいというか。別にそんな、必死になって勉強した所で、今更僕の成績がどうにかなるものでもない。成績やテストの事よりも、詩瑠の体調の方が僕には心配だったし、大切な話だった。
 手持無沙汰な詩瑠のために今週号のジャンプを、僕の為にビックコミックを本棚からとると、僕は革張りで座り心地の柔らかなソファーに腰かけた。詩瑠はすぐにジャンプを読み始めた。犬漫画に剣客漫画、怪奇漫画にギャグ漫画。読みきりで、小畑健の操り左近がやっていた。後で僕も読んでみようか。ヒゲとボインをよく考えもせず眺めながら、僕はそんな事を考えた。
 詩瑠の順番がやってきたのは一時間後の事だった。一時間も待てばすっかりとビックコミックは読み切ってしまい、僕はスペリオールに乗り換え、詩瑠はサンデーに乗り換えていた。浮浪雲に赤べえ、あじさいの歌を詠み終えた僕が、これ以上どうやって時間を潰せばいいのだろうかと悩んだ所に、上手い具合に声がかかってくれた。詩瑠はと言えば、ちょうど話的には良い所だったらしく、名残惜し惜しそうに雑誌を開いたまま立ち上がった。診察室まで持っていくのはまずいだろう。また後で読めるからと、僕は彼女からサンデーを取り上げると、ビックコミックスペリオールと一緒に棚に戻した。
 中の待合ベンチで待たされること更に五分。診察室の扉が開いた。
 かれこれ高校に入ってからというものお世話になっていなかったので、久しぶりに会った先生の老け具合に少し驚いた。白髪が薄くなっているのも驚いたが、顔の皺がとても多い。やぁ、久しぶりだねと、元気にしてたかい。そういう声もなんだかしわがれて聞こえた。元気にしていたら、ここには来てませんよと、お決まりの返事をすると、そりゃそうだ、と先生は笑った。
「で、今日はどうした。妹さんも一緒で、あっ、今日は妹さんを診るのか」
 どちらかと言えば、妹よりも僕の方が先生には世話になっている。先生が勘違いするのも無理はないな、と、僕は苦笑いをした。