「僕の幸せな幸せな子供時代、そのじゅうに」


「ただいま。あら、お兄ちゃんまだ起きてたの」
 そう言って、長く薄く茶色がかった髪を後ろに流し、ポニーテールとして結い上げている女は言った。縁なしの眼鏡に、ピンク色の口紅。目元に刻まれた小皺。黒いコートにチェック柄のロングスカートを合わせ、毛の手袋を嵌めて、ブランド物のバッグを持った彼女は、僕と詩瑠と観鈴の母親だ。
「駄目じゃない、中学生だからってこんな時間まで起きてたら。いや、起きてるのは良いわ。こんな所で暇つぶしてたら駄目でしょう。お兄ちゃん、もうすぐ貴方も受験なのよ。志望校に入ろうと思うなら、リビングでくつろいでないで勉強部屋で参考書なり模擬テストなりやっていないと」
 家庭を顧みず、観鈴の芸能活動につきっきりの癖に、帰ってきたらこの母親面である。自分の事は棚に上げて、随分と勝手な言い分だ。どうにも、僕はこの母さんの事が苦手だった。もちろん、彼女は僕に、不必要に暴力を振るう訳でも、理不尽な要求をすることもない。だが、なんと言えばいいのだろうか。母さんと一緒に居ると、どうしようもなく不自由で、どうにもままらない感覚を、僕は体のどこか深い場所で感じずにはいられないのだ。
 嫌いではない、どちらかと言えば好きだ。生きているのがどうしようもなく不安でしかたなく、眠れぬ夜に母に抱かれて過ごした記憶は、まだ僕の中で精彩を欠くことなく存在している。その時の母と、今の母の姿に、剥離があるのかと言えば、確かに職業や年齢という差はあったが、本質的な違いはどこにも見当たらないように思う。しかし、確かに僕の中には、母を尊敬し慕う気持ちと共に、子供の頃は感じなかった真逆の、鬱陶しく煩わしいと思う感情があったのだ。そして、最近はこうして顔を合わすたびに、僕はどういう顔をしていいのか、どういう返事をしていいのか、迷ってしまうのだ。
「すまんな、私が夕飯に着き合わせていたんだ。悪かった」
 母の詰問に押し黙る僕に助け船を出したのは父さんだった。僕が母さんに問い詰められて返答に窮すると、父さんは度々こうして僕に助け船を出してくれる。ぶっきらぼうで、あまり多くは語らないが、父は根本的な所で僕たちに優しい。あるいは、甘いというのだろうか。父と母のどちらの態度が、僕たちにとって良いのか、それは分からないが。少なくとも、僕は母さんよりも、父さんの方がどちらかと言えば好きだったし、尊敬していた。
 それ以上は何も言わないで、父さんはグラスのビールを飲んだ。あら、そんなに飲んで貴方にしては珍しいわね、と、テーブルを挟んで、母さんが父さんの前に座る。その光景に背を向けて、僕は自室に戻ろうとリビングの扉に手をかけた。その時だ。ふと、誰かが僕の寝間着を後ろから引っ張った。
 振り返るとそこには誰も居ない。ふと、思い直して下に視線を向けると、愛くるしい顔が僕の顔を見上げて満面の笑みを浮かべていた。観鈴、だ。
「にいちゃぁ、あそんでぇ、あしょんでなのでぅ」
観鈴。駄目だよ、もう子供は寝る時間なんだから。遊べない」
「やぁ、なのでぅ。みしゅじゅは、おちごとで、よりゅしか、あそべにゃいのでぅ。ねぇ、にいちゃぁ、にいちゃあ、みすじゅと、あそんえ!!」