「御園詩瑠の純粋なる憎悪」


 冷たい風が病室の中へと吹き込む。詩瑠の背中にある窓が開け放たれていた。この世で最も残酷な、絶望に満ちた微笑みを俺に向けると、詩瑠はゆっくりと俺の背中に手をまわして、そして、後ろへと後ずさった。
 言葉もなく、音もなく、俺たちは深い闇が口をあけている、窓の縁に腰かけた。前の城址に街の光は遮られて、分厚い雲に月の光は遮られて、なにも見えない夜だった。見下ろせば、地面も見えず、まるで永遠の暗闇へと続いているように思える。この世とあの世の境、あるいは、地獄へと通じる穴。
 許しを請うように詩瑠は俺の唇にその青ざめた唇を重ねた。温かくなければ湿ってもいなければ、柔らかくもない、死人の口づけだったが、嫌悪感など少しもなかった。ただ、彼女の悲しみだけが俺の中に流れ込んで、俺は。
「いいぞ、連れてけ、お前が寂しいなら一緒に居てやる」
 と、返事をしたのだった。悲しかった詩瑠の表情が、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ生気を取り戻して、また、悲痛にその幼い顔を歪めるのだった。
「……ごめん、な、さい。ごめんなさい、お兄ちゃん」
 闇が、俺の体を覆っていく。行き先の見えない、深い深い、悲しみの中へと落ち込んでいく。夜の空気が俺の体に纏わりついて、逆さまになった重力が闇の底へと俺と詩瑠の体を押し込んでいく。あの日、詩瑠が冷たくなった日に、動かなくなったあの日に、俺はこうするべきだったのだ。寂しがり屋な妹の為に、彼女の死体を抱いて一緒に落ちるべきだったのだ、この闇に。
 遠くに見える光る窓の中に、みりんちゃんと偽物の詩瑠がケーキを作っていた。楽しそうに、へらへらと、まやかしの幸せの中で笑っていた。そうだよ、お前たちはそうして、詩瑠と俺を忘れて、笑って生きていくがいい。
 憎いとは思わない。お前たちも俺の大切な妹には違いないのだから。
「……お兄ちゃん。好きよ、愛しているわ。ありがとう」
 詩瑠の顔が俺へと延びる。死の痛みも、憎しみも、悲しみも、全て忘れられるように、詩瑠は俺の唇へ貪りついて、激しく、俺の中をかき乱した。
 そして、全ては暗転し、終了した。胸の中に確かに詩瑠の冷たさを感じながら、俺は地面へと到着し、そして、激突した、絶命した、死亡した。
 薄らいでいく意識の中でふと目を開ければ、何者かが俺の瞳を覗きこんでいた。それは目元に力のない老いた犬。臭い息が顔にかかり、温かい舌が俺の目を舐めた。やめろよ、ゴロ太。俺はもう、ゆっくりと静かに眠りたいんだ、お前を構ってやる事はできないよ。昔から賢い犬だったゴロ太は、言葉にしなくても俺の言わんとせんことが分かったらしく、ゆっくりと舌を俺から離すと、俺の胸に倒れている本来のご主人、詩瑠の顔を優しく舐めた。
「ゴロ太。お兄ちゃんの代わりになる為、来てくれたの。優しい子ね、貴方だけが、貴方だけが私の事をいつまでも忘れずに覚えていてくれたのね」
「俺の代わり。何を言っているんだ。一緒に行くって、言っただろう」
 無理よ、と、微笑んで、詩瑠は起き上がるとゴロ太を抱いた。そして、また悲しい顔をして、今に消えてしまいそうな顔をして、俺に微笑んだ。
「だって、だって、愛しいお兄ちゃん、私が憎いのは貴方じゃないもの」