「魔法少女風味ミリンちゃんのお兄ちゃんは回復する」


 足の傷が完全に塞がり、車椅子を使わず自由に歩けるようになったのは、大晦日の事だった。俺の主治医は、俺の足をなめまわすように見ると、看護婦たちに指図し、そして、随分とよくなった、早ければ今日にでも退院してもらって構わんよと、まるで厄介者を追い払うような口ぶりで俺に言ったのだった。こんな年の瀬に病院を追い出されていったいどこに行けというのだろう。せめて年が明けるまでは入院させてくださいと言うと、それはもっともだと白髪の主治医は頷いて、それじゃ、おせち料理はどうするかね、と、俺に尋ねた。なぜそこでおせち料理の話になるんだ、とあきれていると、先ほど何やら支持された看護婦の一人がチラシを一枚持ってきた。うちの弟がね、食品会社に勤めていてね、おせちの販売をしているんだが、どうにも今年は売れ行きが悪くってね。それで、病院で年越しをする元気な人達に、どうかと勧めて参ってるとこなんだよ。おいおい、それは職権乱用って奴じゃないのか。まぁ、少し考えておいてくれ、今日の夕方までは大丈夫だからさと、人の好さげな笑みを浮かべると、主治医は俺の肩を叩いた。くりきんとんに昆布巻、だし巻き玉子に紅白のかまぼこ。思わずよだれがでそうなくらい、パンフレットに写っているおせち料理は魅力的だった、が、ここ数週間の入院ですっかりとお金を使い切った俺には、そんな余裕はなかった。
 主治医が部屋を出たのを見計らって俺はパンフレットを丸めてごみ箱に捨てた。味噌舐め星人は、見舞いに来たミリンちゃんと一緒になって、年越しパーティー用の蕎麦を買いに出払っていた。例によって、蕎麦よりうどんがいいです、年越し味噌煮込みうどんですとしょうもない主張をしてくれた味噌舐め星人だったが、大晦日ってのは皆で蕎麦を食べるものなんだよと、なんとか言い切った。変ですね、大味噌かなのに味噌料理を食べないなんて、変な話ですね、と、不思議がる味噌舐め星人を説得するのは、正直なところ少し骨が折れた。まぁ、どうしても味噌が食べたいのなら、一人だけ蕎麦にチューブ味噌でも入れて、味噌蕎麦でも作れば良いんじゃないだろうか。そんな料理、俺は見たことも聞いたことも食べたこともないけれど。
 せっかく自由に歩けるようになったというのに、いざ、健康になってみると、意外とすることもないんだな。バイトと言うのが、いかに自分に生きている実感を与えてくれていたのかというのを考える。人間、遮二無二生きている方が、退屈に任せて生きているより楽なのかもしれない。いや、娯楽があれば少しは違うのかもしれないなと、俺は、ベッドの傍らに置いた小説を手に取った。緑のハードカバーと言う装丁をしたその本はノルウェイの森。18歳の時分にふとしたきっかけで図書館で借りた所、親父が持っているというので譲り受けたものだった。悪趣味極まりなく、芸術を理解するという事に関して疎い親父であるが、この本を持っていたという事だけは評価できた。父さんにしては珍しいねと、当時の俺も思わず問いただしたが、彼はなんだか遠くを見るような目をして、まぁな、と答えるだけだった。手あかがあまりついていないことを考えると、きっと誰かからの贈り物かなにかなんだろう。あるいは、流行に流されて買ったのか。まぁ、どうでも良い話だ。