「味噌舐め星人の名前」


 台車を押してナースセンターへと歩き始める看護婦さん。前方向へと回転する車いすの車輪。そして俺の背中で起きる残念そうなため息。
 何を言ってるですかお兄ちゃん、お姉ちゃんさんの名前を聞かれてるのに何を言ってるんですか。いや、それは分かっているのだけれど、何故だろうか俺には今日に限って、妹の本名が思い出せなかった。不思議な事に、免許証に載っていた味噌舐め星人の名前を、なんてことはない、俺と同じ名字でミリンちゃんとたいして変わりない名前を、俺はど忘れてしたまったのだ。えっと、味噌舐め星人さん、ね。失礼だけれど、その味噌舐め星人さんと貴方はどういうご関係なの、それは兄妹です。妹なんですけど、すみません、どうにも、いつもあだ名で呼んでいることの方が多いので、名前をど忘れしてしまって。ひきつった顔をしてどうしたものかという思惑を顔に表した看護婦に、俺は下手くそな言い訳をした。家族の名前を忘れる奴があるだろうか。いや、そうでなくっても、俺はあだ名でだって彼女を呼んでいない。いつもお前呼ばわりで、味噌舐め星人の名前を呼んだことのない自分が居た。
 年齢はどれくらいですか。大学生くらいなのです。黒いストレートの長髪で、タートルネックを着てることが多いのです。ちょっとボケボケですけれど、美人さんで、優しくって私にそっくりの自慢のお姉さんなのです。役に立たない俺を置いてきぼりに、ミリンちゃんは淡々と看護婦さんに味噌舐め星人の説明をしていく。わかりましたと看護婦さんが頷くけば、丁度ナースセンターについた。台車を入り口に横付けると、ちょっと待っていてくださいね若い看護婦は中へと入る。彼女はナースセンターで待機していた何人かの看護婦と相談し、ふと、こちらを振り返ると指を俺とミリンちゃんに向けた。中の看護婦たちが何やら頷く。名前を言うよりも、顔を見せた方が誰だかわかり易いと思ったのだろう。なんとも効率的な意思の伝達方法だ。
 しかし、残念ながら指を差された甲斐もなく、ナースセンターの看護婦は誰も味噌舐め星人の行方は知らなかったらしく、すぐに全員が首を横に振ってみせた。若い看護婦は中年の看護婦たちに言づけてこちらへと戻ってくると、ごめんなさい、ちょっとわからないわ。下の階の人にも行方を聞いてみますから、と笑って言った。よろしくお願いします、と、しか言いようがない。すぐにナースセンターのデスクへと移動した彼女は、さっそく電話をかけ始め、ほかの看護婦は俺たちが来るまでにやっていた自分の仕事に戻る。台車に赤チンを載せて走っていた若い看護婦の代わりに、もう一回り若そうな看護婦が奥からやってきて、台車を押して出て行った。すれ違いざまに見えた彼女の顔は、可愛らしいがどこか棘のある感じで、ちょっと見ただけだというのに、何を見てるんですかと、凄まれてしまった。感じの悪い人なのですと、つい最近まで俺に対して同じような態度をとっていたミリンちゃん言ったのが、こんな状況だというのに、なんだか少し笑えた。
 居ましたって、妹さんらしき人。デスクに座った看護婦さんが俺たちの方を振り向いて叫んだ。本当ですかと俺が尋ねると、彼女はゆっくり首を縦に上下させる。すぐいきますと受話器に語ると、彼女は電話の回線を切った。