「醤油呑み星人の嗚咽」


 ICUの前には何人かの人が居たが、その中から顔見知りを見つけるのは実に簡単だった。泥のついた作業服を着た大柄の男に、温かそうなセーターを着込んだ小太りの女性。そして、彼らに慰められている様な格好で、頭を垂れている太い黒縁の眼鏡の女。それは店長の両親と醤油呑み星人だった。
 俺が近づくと、醤油呑み星人はゆっくりと顔を上げた。悲しみに濁った彼女の瞳は、一瞬どこを見ているのかよく分からなかったが、すぐに俺を捉えて瞬いた。起きた、のね、そう、よかったわ。あぁ、と、俺が返事をする前に彼女はまた視線を地面に落とした。いつもの、皮肉と無意味な自信に満ちている彼女からは想像もつかない、それは、微塵の力もない顔つきだった。
 なんとなく、半信半疑ではあったのだが、それで、俺は醤油呑み星人が、店長に対してどういう感情を持っているのかを理解した。いや、あの日、彼女がコンビニの外へ飛び出して行こうとした時から、無残に切りつけられる店長を見て叫びを上げたその時に、既にそんなことは気づいていたのだ。ただどうしても確証が持てなかっただけ。そう、醤油呑み星人は、どうやら店長の事を好いているらしかった。もしかすると、既に愛しているのかもしれない。そんな彼女に、大切な人が傷つき生死の境をさまよっている彼女に、一体、どんな言葉をかけてやることができるだろうか。俺はただ、彼女をこれ以上傷つけない為に、沈黙することしかできない自分が、情けなかった。
 あぁ、貴方、あの子のお友達の。今回は、貴方も災難だったわね。足は大丈夫なの。えぇ、なんとか、と、俺は言った。もう少しで、一生歩けなくなる所だった、なんて、言ったところでどうなるものでもない。それよりも、だ。あの、店長、は、どうなんですか。俺は静かに俺を見つめてくる、店長の父親と母親に質問を投げかけた。曖昧な質問だったが、助かるんですか、とか、命に別状はとか、そんな言葉は肉親を前にしては流石に出てこなかった。二人は緩慢な動きでお互いの顔を見合わせると、再び俺に顔を向ける。
 峠は、越したよ。命に別状はないそうだ。ただ、ね、いつ、目を覚ますかちょっと分からないんだ。ちょっと分からない、とは、どういう意味だ。それはつまり、彼がもしかしたら、ずっと、このまま、目を覚まさないかも、しれないという、そういう事なのだろうか。身の毛がよだつ想像に恐怖したのか、俺の舌が突然痺れ、呂律が回らなくなる。喉が枯れ、言葉を失って、俺は気づけば病院の白い床を見ていた。清掃員に磨き上げられた床には、俺の青ざめた顔が映っていて、少し視線をずらせば、醤油呑み星人のこの世の終わりとでも言いたげな血の気の引いた白い顔さえも見ることが出来た。
 今から、面会、だったんだ。君も、よかったら、会って行ってやってくれないかい。店長の父はそう言うと、ミリンちゃんから車椅子のハンドルを奪う。とりあえず、ここまででいいから、お前はお姉ちゃんさんの所に戻っていろ。命じればミリンちゃんは素直に頷いて、元来た道を戻って行った。ご家族の方、お待たせしました、と、看護婦の呼ぶ声。店長の父が俺の車椅子を押し、店長の母が醤油呑み星人の肩を抱いて立ち上がらせる。ふと、後ろから女の啜り泣く声が聞こえた気がしたが、振り返る勇気は俺になかった。