応募原稿『タイトル未定』13,14,15,16ページ


「いや、そのね、こう、女の子と二人っきりで出かけるわけじゃない。そういう時って普通さ、少しは喜んだりとかするものじゃないの、男の子って」
 い、言われてみれば、二人で図書館に行くって言うのは、それはつまり、立派にその、世間一般的に言われるデートって物じゃないだろうか。いや、ないだろうかじゃない、そうだ。いや、まて、それはそこに恋愛感情が絡んでれば確かにそう言い切ることもできるだろうが。櫛田さんが僕の事をどう思っているかは分からないわけで、けれども、何も思っていなかったらそんなことを言い出すこともないわけで。彼女の気持ちを推し量れば、暗にこの図書館行きを、彼女は僕とのデートと捉えていると、考えることができるんじゃないか。いや、しかし、そんな、こんな僕なんかで良いのだろうか。
「あらやだ、長い沈黙ね。ちょっとした冗談なのに、本気にしちゃった」
「あ、あぁ、そうですよね、冗談ですよね。うん、分かってましたよ、僕」
 けらけらと携帯電話越しに櫛田さんの笑い声が聞こえてくる。どうにも彼女の冗談はわかりにくいというか、たちが悪い。まんまと笑いものにされてしまった僕が黙っていると。だから、そんなに真に受けないでよ、冗談なんだからと、櫛田さんがひやかしとも取れるような微妙なフォローを入れた。
 かくして、ひとしきり笑い終えた櫛田さんは、二度目のお休みを僕に言うと、今度は迷いなく通話を切った。僕はなんだか釈然としないもやもやとした感情のまま、携帯電話を制服のポケットにつっこむと、ベッドにふてくされた感じに体を横たえた。明日もこの調子で櫛田さんにからかわれ続けるのだと思うと、なんだかちょっぴり気が重たい。ほんと、櫛田さんって普段は澄ましててちょっぴり大人っぽい感じなのに、意外と現代っ子なんだなぁ。
 時間にして僅か五分と立っていないと言うのに、どっぷり疲れた僕は、布団の中にもぐりこむと、今度は電気をしっかりと消して目を瞑った。まだ耳の中に櫛田さんの声が残っているような、そんな感覚があった。散々に弄られたが、それでもやっぱり、僕は櫛田さんにどこか憧れているのだろう。
 やがて意識がまどろんで来た。目を瞑っているのか、それとも部屋に満ちている闇を覗いているのか、分からなくなってくる。僕の睡眠はこうした混乱と共に訪れることが多い。そうして思考は得体の知れない方向へと引き戻され、僕の過去や未来を何の法則性もなく、微塵の現実性もなく妄想する。
 櫛田さんと出会った音楽室の映像が、突然瞼の裏に浮かびあがった。映像の中の彼女はただ黙って、天井近くに居並んだ名のある音楽家達を眺めている。僕は確かにその空間に存在したけれど、彼女は僕の事に気づいていない様子だった。どうしてなのかな、と櫛田さんが呟くのを、僕はわけも分からず見つめているのだ。そして、分けも分からず涙が出るほど悲しくなった。
 もうこんなことは終わらせなくっちゃいけないんだ、もうこんな思いはたくさんだ。そんな言葉が、僕の脳裏を意味もなく過ぎ去っていく。なにが悲しいのか、なにを終わらせなくちゃいけないのか。僕が透明人間になった理由と同じくらいそれは意味不明だったが、涙だけはなぜか止まらなかった。
 ふと、深いな電子音で現実に引き戻された僕は、部屋の電気をつけ、目尻に溜まった涙を拭うと、ベッドから出た。相手はまた櫛田さんだったが今度はメールで、明日の集合時刻と約束忘れないでねと注意が書かれていた。

 夜が明けた。妙にごわごわと落ち着かない瞼を擦りながら布団から抜け出す。カーテンの隙間から朝日を見れば欠伸が腹の底から立ち上ってきた。目覚ましが鳴ったので止めると、僕は制服に袖を通す。一晩寝ればもしかすると透明人間も治っているかもしれないと、鏡を覗いたが、僕の体も、僕が身に着けているはずの真っ黒の制服も、ほんの少しだって映っていなかった。
 朝食を作る母に挨拶をして、僕はテーブルに着いた。昨日の夕飯と同じように、引かれている椅子を頼りに朝食をテーブルに並べる母。焦げ目の濃いトーストと目玉焼き、それにベーコンとアスパラガスの炒め物。母さんの朝の得意料理である。目玉焼きを半分に切り、ベーコンたちと一緒に、マーガリンとマスタードを塗ったトーストに挟んだ。いつもの朝、いつもの朝食。
 今日は学校に行くの、と、台所で弁当の準備をしている母さんが聞いた。行くよ、と僕が返事をすると。そう、と小さく頷いた。少し間をおいて、先生たちにはお母さんから話をしておこうかしらと、彼女は言ったが、そんな事を言ったところでどうにもならないと気づいたのか、暫くしてまたごめんねと小さく僕に謝った。なにも母さんが謝ることなんてないというのに。
 できあがった弁当箱をリビングに放り出してあった学生鞄に詰め込んで、僕は玄関に向かった。見送りにきた母さんに、いつもより元気にいってきますを言うと、僕が家の外に出たことが伝わるように、大きく扉を開けた。
 僕の家は比較的学校の近くにある。比較的近くとは、自転車を使わずともなんとか登校できるくらいの距離という意味だ。十分も歩くと、僕と同じく学校へと向かう学生達が群れをなして歩いている大通りに出た。そんな中にひっそりと紛れ込んで僕は学校へと向かう。誰も僕が一緒に歩いていることなど気づきはしない。それは透明人間であっても、透明人間でなくても同じだ。皆、友達や恋人と話すのに夢中で、周りのことなんて五円玉の穴ほども見えちゃいない。だから最初から、そんな彼らにはなんの期待もしてない。
 駅前へと続く通りと合流して人が増えると、僕は辺りを見回して僕が見える人を探した。櫛田さんも確かこの時間に登校していたはずだからだ。これまでにも、何度か彼女の後姿を見たことがある。連れ立って歩く学生達の背中を追い越して、僕は通学路の中に彼女を探す。すると、学校の校門の手前で一人寂しく学生鞄を手にして歩く、櫛田さんの姿を僕は見つけた。
 やぁ、おはよう、櫛田さん。昨日の今日で少し馴れ馴れしいかなとも思ったが、僕は櫛田さんに声をかけた。彼女はちらっと、こちらを見たかと思うと、まるで何事もなかったのようにすぐ前を向き、涼しい顔で校舎へと歩いていった。僕のとろくさい頭では、起こった出来事を理解するのに数秒がかかった。つまり僕は、昨日に代わって、彼女に平然と無視されてしまった。
 なんで、どうして。昨日は僕のこと助けてくれるって、協力してくれるって、言ってたじゃないか。わざわざ夜中に電話までしてきてくれたって言うのに。なんでそんな急によそよそしい態度をとるのだろうか。分からない、意味が分からない。いや、もしかしたら、他の生徒と同じ様に彼女も僕が見えなくなったのかもしれない。それなら、僕を無視したのも納得がいく。
 そうか、櫛田さんにも、僕の姿は見えなくなってしまったのか。
 僕は絶望感と共に校門にたどり着き、自分の下駄箱を開けた。すると、なぜか中に本が放り込んであった。赤色の表紙が毒々しいそれは、文庫の小説で、タイトルは『クリスマス・テロル』、著者は佐藤友哉と記されていた。ゆうやかともやちょっと分からない。そもそも、そんな作家の名前を見たことも聞いたこともない。あまり僕は小説を読まない方だが、それでも、西尾維新舞城王太郎という、人気作家の名前くらいは知っている。きっとこの佐藤友哉というのは、知る人ぞ知るマイナーな小説家なのだろう。しかし、なぜそんな小説家の作品が、僕の下駄箱に入っているのだろうか。
 ふと文庫本の中に、栞にしてはやけに大きな紙が挟まれている事に気がついた僕は、破らぬように優しくそっとその紙を引き抜いた。それは二つ折りになっていて、開けば白地の紙の淵に可愛らしい模様が入っている便箋だった。そしてその中心には黒いインクで、『私の持っている本の中に透明人間に関する(ちょっと違うかも)本が一つあったので置いておきます。何か参考になるかも知れないので、よかったら読んでみてください』、と女の子らしい丸文字で書かれていた。下端に書かれた手紙の主の名は、櫛田都子。
 無視をしておいて、こんなものを下駄箱に入れていく。いったい彼女はどういう神経をしているのだろうか。思考を蒸し返せば、また彼女に僕が見えなくなったのかだとか考えなければならない、面倒だし不毛そうなのでそれは止めておいた。どれだけ考えてもやはり僕には分かりそうにもない。けれども、この妙な気持ちはごまかしきれなかったし、押さえきれなかった。
 僕は下駄箱にスニーカーを入れ、上履きに履き替えると、ポケットに櫛田さんの小説を詰め込んで、階段を上った。上って上って、三階までたどり着くと、ふと、この学校には屋上なんてものが存在しないことに気がついた。仕方ないので、昨日あけたままにしておいた音楽室に忍び込むと、僕は、黒くて重たそうなグランドピアノの下に転がり込んで、持っていた鞄を枕にして大の字に寝そべった。明るい茶色をしたベニヤ板の天蓋は、建物的にも名声的にも大きくもなければ、生徒数も少ない、加えて美術は書道・絵画・音楽からの選択式のこの学校では、一日音楽室を使わないなんてことも珍しくはない。なのに、こんな立派な音楽室を作るだなんて、税金の無駄遣いってやつだろう。思ったとおり、朝一から音楽の授業はないらしく、始業を告げるチャイムが鳴ると、僕は別に眠たくもないのに静かに瞼を閉じた。
 それからどれくらいの時間がたったかは覚えていない。途中で何回か授業があったようにも思うし、ずっと無人だったようにも思う。とにかく、僕はお腹が空いて目を覚ました。鞄から弁当箱を取り出すと、僕はグランドピアノの下から出る。ピアノを囲むようにして並べられた椅子の中から、一番窓際に近いのを一つ選ぶと、それを窓際に置き、そして腰を下ろした。カーテンを少し開けると、眼下には濁った色をしたプールが見えて、その向こうに体育館、グラウンドが続いている。授業中だろうか、何人かの生徒がグラウンドを走っていた。見上げれば、空を漂う太陽はまだまだ本気を出していない。まだ、もう少し、熱くなるだろう。窓を開ければ、心地よい午前の風が音楽室に入り、鈍重な牛か馬の様に、黒いカーテンを揺らめかせた。そんな中、僕は弁当箱の包みをほどき、蓋を開ければ、お米の良い匂いがした。
 腹が満たされると、消化にエネルギーを使うのでどうしても眠たくなる、と、誰かが言っていた気がする。しかしながら、それはどうにも寝不足気味の現代人だけのようで、眠りに眠った僕には関係がないようだった。椅子を元あった場所に戻して、グランドピアノの天蓋がついたベッドに戻る。鞄を頭にしながらも、なぜか妙に目が冴えてしまい眠れなくなった僕は、ポケットから先ほど下駄箱に入っていた文庫本を取り出す。他にすることもなく、ていの良い暇つぶしも見つけられなかった僕は、仕方なく櫛田さんがくれた小説を読む事にして、そのグロテスクに赤い表紙を親指の腹で捲った。
 表紙のイラストから、てっきりライトノベルかと思っていたが、以外にも中身は普通の小説で、本文には挿絵の一つだって入っていやしなかった。しかしながら、その根底に流れている空気のようなものには、どことなく親近感を抱いたし、もったいつけたような書き出しを読み下してしまえば、いつの間にかその世界に僕は溺れるようにして浸っていた。だいぶ表現が回りくどくなってしまったが、僕はこの佐藤友哉という小説家が書いた作品を好ましいと思った。好ましいという表現もくどい、面白いと思った、のだ。
 そして真面目に推理して、真面目に裏切られたときの絶望感はなかった。消えたのではなく、見えなくなってしまったのだ、だって。あぁ、なんて馬鹿馬鹿しいオチなんだろう。なんてくだらないトリックなんだろう。
 いや、巧妙にめぐらされた伏線。たとえば、妻の幻影を求めて島を彷徨う爺さんだとか、爺さんだとか、爺さんだとかは、評価できる、と、思う。後出しじゃんけんではなく、答えはあらかじめ読者に提示されているのだ。しかしながら、見えなくなったという発想へと至るプロセスが皆無だ。どこをどう頭を振り絞ったならばそんな発想が読者の頭の中に湧いて出るというのだろうか。彼のファンなら思いつくのか、それとも読者は思考を停止して、小説家の言葉の愛撫に身を任せるままの惰弱な存在だとでも言いたいのか。馬鹿馬鹿しい、実に阿呆らしい、不愉快だ。貴方が描いた主人公の言葉をそのまま貴方に返してやりたい、誰がお前の小説なんて読んでやるかよ。
 僕は、まだあとがきを残したまま、佐藤友哉先生の本を閉じるとポケットに仕舞った。本当は、音楽室の窓を開け放ってプールに向かって投げ捨ててやりたかった。こんなくだらない話を読ませやがって、こんなどうしようもない話を読ませやがって、こんな後ろぐらい話を読ませやがって、こんな救いのない話を読ませやがって。純度百パーセントの怒りだけが僕の中に湧き起こった。僕は怒った、しかしこの今にも体の中から溢れ返らんばかりの怒りを、どこにぶつけることも今の僕には叶わなかった。これはそういうものだと思って飲み込むしかないモノなのだ。これはそういう怒りなのだ。やれやれ、佐藤友哉先生。貴方って人は、読者を怒らせる天才だよ。一度、『推理小説が好きな読者をキレさせる100の方法』というタイトルでDVDでも出してみると良い。と、涼しい顔をしてやり過ごすしかないのだ。
 ポケットの中の文庫の表紙の様に赤い空を見ていると、僕は不機嫌になった。テニスコートでは、授業を終えた一年生達がネットを巻き上げている。もうすぐ、ここにも吹奏楽部の部員達がやってくるころだろう。こうしてはいられないぞと僕はグランドピアノ下から這い出ると、音楽室を後にした。