応募原稿『タイトル未定』1〜10ページまで


一、『笑えない笑い男。すなわち僕認識、僕マスク減算』


 男の子なら誰だって透明人間に一度はなりたいって思うものなのだろうか。どうにも僕にはそういう感覚は分からないのだが、まがりなりにも医学部を出ている医者が、真面目な顔をして言うのだからきっとそうなのだろう。明後日の方向を向いて、おめでとう、どうやら君は透明人間になってしまったようだ、これで女風呂も女子更衣室も覗き放題だね、実にうらやましい。なんて、冗談じみた診察結果を言う医者を、僕はどういう顔で見つめているのだろうか。
 こっちは深刻だというのに辺に茶化されて、きっと、今僕は鬼のような顔して怒っているに違いない。しかしながら残念なことに、僕は今日付けで透明人間になってしまったので、彼にその怒りを伝えることはできなくなってしまった。いや、声で伝えることはできるが、目は口ほどに物を言う諺がある。それに声のみで怒りを十分に表現するには、無気力な僕には演技力がいささか足りなかった。
「声はすれども姿は見えず、光学迷彩でもなければ、マジックでもなく、お化けでもない。ある日、いつもどおりに学校に登校したら同級生に自分の姿が見えなくなっていた、ってのは強烈だね、まさしく現代の奇病って奴だ。流石にこいつはお手上げだ。現実離れしすぎてて医者の手に負えない、治し方は小説家か漫画家にでも聞いてくれ。まぁ、一応、処方箋としてペンキは出しておいてあげる。ペンキ被って透明人間の正体がってのは、お話の典型だからね」
 それじゃお帰り頂戴と、医者は椅子から立ち上がると、手ずから診察室のドアを開けて、俺を外へと連れ出した。そして、見えない僕の為に、彼の給料の為に、医者は会計まで歩いていくと、クリアファイルに挟まれたカルテを会計のおばさんに手渡した。こんな気休め程度の診察でも、初診料はがっつりとられ、親から貰った一万円札はきれいに消えてしまった。さらに馬鹿馬鹿しいのは、処方箋にしっかりとペンキ1リットルと印字されていたことだ。受け取り先は大手ホームセンター。一日1リットル、朝食前にかぶること、なんて丁寧に用法まで書いてあるのには、僕もあきれ返った。どうもお医者様ってのは、世間の評価に対して暇なお仕事らしい。
 どうして、こんな事になったのか。僕が透明人間になってしまった、おおよそ論理的で万人が納得できるような原因は、どう僕の脳内の過去の記憶を探しても思い当たらなかった。僕は怪しい化学薬品を飲んじゃいないし、被ってもいないし、改造もされてない。ごく普通の生活をしていて、突然、透明人間になってしまったのだ。
 学校に登校した僕は、クラスメイトのよそよそしい態度を、最初はなんとも思わなかった。自分の姿が見えないだなんて、微塵も気づかなかった。けれども、先生が出欠で僕を飛ばし、友達が話しかけても振り返るばかりで返事をせず、挙句クラスの女子が今日はアイツ来てないのねと、噂話をしているのを聞くにつれて、どうにも僕の体が見えなくなっているという、異常事態に気がついた。
 泣き疲れて家に帰り、台所で食事の準備をしている母にも、気づかれなかった時には、もはやこの世の終わりかと僕は思った。
 声と道具を動かすことで、なんとか自分の存在を母親に理解してもらえたから良かったものの、もし、母さんにも気づかれなかったら、僕は今こうして病院に来ることさえできなかっただろう。救急車を呼ばれたのは流石に恥ずかしかったが、そうでもしなければ、病院側としても透明人間の僕を知覚することはできなかったに違いない。それでも多くの救急隊員が半信半疑の状態で、僕は病院に運ばれた。そして、CTIやレントゲンといった精密検査の結果、どうやら本当に透明な人間が居るらしいと、分かってもらえたのだ。もっともその病名や原因については、分からないで済まされたが。
 さて、明日からどうしようか、どうやって生活していこうか。
 病院からの帰り道、僕はホームセンターに寄ってペンキを買おうかと本気で悩んだ。悩んで悩んで、ついに買おうと決心してホームセンターに行ったのだけれど、よくよく考えると透明人間の僕に店員が気づく筈もなく、結局僕はペンキを買うことができなかった。どうしてもというなら、母さんに頼むほかない。けれどもはたして母さんも僕を知覚してくれるのだろうか。そんなどうしようもない不安ばかりが、僕の頭の中を席巻する。どうして、僕は透明人間なんていう、酷く不便で滑稽なものになってしまったのだろう。
 人並み以上に身に降りかかる不幸に慣れてしまった僕でも、今回ばかりはちょっと応えた。透明人間としての生活の事を思うと、自然と足取りは重くなったが、そんな僕の仕草に気づいて慰めてくれる人も、もうこの世には居ないのだ。鏡に映る陣部の顔を見て、おいおい僕よ、酷い顔してるな、どうしたんだよとも思えないのだ。
 透明人間って奴は、いざなってみると実に厄介な生き物だね。
 大通りを笑顔で歩いていく人たちを見ていると、今まで感じたことのないどす黒い感情が自分の中に湧き上がってきて、僕は少し戸惑った。誰も彼も、隣を歩く友人や恋人と楽しく談笑しやがって。一人さびしく家路を行くサラリーマンだけが、僕の気持ちを分かってくれるだろう。しかしそんな彼らにも、家に帰れば暖かく迎えてくれる家族が居るんだ。
 もうどうにかなってしまいそうだった、おかしくなってしまいそうだった。透明人間なんだ、何をしてもばれないよと、僕の中の暗黒面が訴えかけた、そそのかした、背中を押した。そうだ、僕は透明人間になってしまったのだ。僕の行動を誰が見咎めることができるというのだろうか、僕がやったと誰がわかると言うのだろうか。
 陳腐な表現だがわるいことをしたくなった。そうやって、僕はここに居るんだと無意味に自己主張をしたくなった。暴走族が夜中に街を走り回るようなそんな気持ち。自分の価値を示すために、仲間と共に世界にこれでもかと反抗するんだ。けど、僕には仲間は居ない。だから、多少卑怯でも世界はきっと許してくれるはずだ。
 けれど、いったい何をすれば良いんだ。万引き? 引ったくり?
 いざ具体的な行動を考えると足が竦む。元々、小心者で大人しい僕には、そんなことはとても出来そうにない。なら、何ならできるというのだろうか。トンネルの壁や民家の塀にスプレーで落書きをする。駄目だ、ペンキすら買えないし万引きすることのできない僕には、スプレーは手に入れられない。だったらイタズラ。ピンポンダッシュをしたり、道行く人の肩を叩いたり。とてもショボくて逆にこっちが惨めになってくる。そんなことをしたって、何になるって言うんだろう。なによりどっちも最終的に逃げている。自己主張するんじゃないのか、僕はここに居るよって言うんじゃなかったのか。駄目だ駄目だこんなんじゃ、ちっとも慰めになりゃしない。
 気がつくと、僕は学校の前まで来ていた。既に正門は閉められていて、裏口から部活を終えた生徒が、ちらほらと出てくる。そんな中で、僕は逆流するようにして裏口から校舎に入った。理由なんて特にない、なんとなくそうしてみたくなったのだ。もしかすると、透明人間になったのは一時的な事で、廊下を歩くうちにすれ違った友達が、声をかけてくれるかもしれないと思ったのかもしれない。とにかく、僕は夕日に染まって真っ赤になった学校廊下を、静かに歩いた。一階から、三階まで、隅から隅まで、余す所なく。
 やがて、三階の突き当たりにある音楽室に俺はたどり着いた。音楽室には既に明かりはなく、毎日熱心に練習している吹奏楽部の部員も居なければ、少し神経質な感じのする変わり者の音楽教師も居なかった。静かな音楽室というのは、なんだかその存在をまるっと否定されたようで、不思議な感じがした。もっとも、昼休みや授業のない時間にも静かなのだろうが。おそらく、黄昏時という時間と空間が、いつもよりも寂しげに僕に感じさせたのかもしれない。
 ふと、そのドアが微かに開いているのに僕は気がついた。部活を終えた吹奏楽部員がうっかり鍵をし忘れたのだろうか。物騒だな、誰かが勝手に入って備品を盗み出したら、どうするつもりなのだろう。僕は、せめて扉が開いているのが分からないようにと、音楽室のドアに手をかけた。手をかけて、せっかく開いているのだから、ちょっとばかり中の様子を見てみようかなと、そんな事を思った。
 別に覗いたからってどうなるって物でもない。学校に入ったときと同じように、なんとなくだ。いや、学校に入った時には、もしかしたら誰かに見つけてもらえるかもしれない、という淡く儚い希望があった。今回は、本当の本当にただなんとなくだった。何の理由も、何の必然性、何の必要性も僕の中には存在していなかった。
 しかし、僕と違って音楽室の中には、偶然性が潜んでいた。
 薄いカーテンに光を遮られて薄暗い音楽室。誰も居ないと思われたその真ん中で、女の子がが一人倒れていた。長くて太い三つ編みのお下げが床でSの字を描いている。切りそろえられた前髪、その下には洒落っ気の欠片もない黒縁の眼鏡。綺麗に生え揃った細い眉毛と、流線型な瞳のライン、微笑めば誰もが見とれる美人だろうその顔は、眉間に浮かび上がった皺で少し残念な事になっている。
 彼女の顔を僕は知っていた。彼女の名前を僕は知っていた。同じクラスの櫛田都子さんだ。はて、なんで彼女がこんな所に居るのだろうか。僕の記憶が正しければ、彼女は吹奏楽部じゃなかったし、軽音部でもなかった。それどころか、なんの部活にも所属していなかったように思うのだけれども。いや、それよりも、今は彼女が倒れているということが問題だ。いったい、どうしたのだろうか。
 僕は都子さんに駆け寄ると、彼女の容態を観察した。遠くからはよく見えなかったが、その薄い胸は上下に動いていたし、それにあわせて鼻も膨らんでいた。特にこれといった外傷も見当たらない、どうやら彼女は眠っているだけらしい。ほっと僕は息を吐いた。
 都子さんはよほどよく眠っているらしく、僕が駆け寄ったことにも気づいていない様子だった。透明人間とはいえ、走れば激しい足音はするし、息だって吐く。人ごみの中ならいざ知らず、誰も居ない場所で、その存在感を消すことはちょっと難しい、と思う。続いてその頬を軽く叩いてみても、まったく反応は返ってこなかった。見るからに勉強してますって感じの都子さんのことだ、よほど日ごろの勉強疲れが溜まっていたのだろう。なんにせよ寝ているときまで顔が怖いっていうのは、個人的にちょっと残念だった。せっかくの美人さんなのに。笑えばきっときっと凄く可愛いらしいのに。
 なぜ都子さんがこの場所で眠っているのかについて、僕は暫く考えた。しかし、これといってそれらしい答えは思いつかず、結局僕は考えることをやめた。そんなことは、起きた彼女に直接聞けば良いのだ。それよりも今の僕には、昏々と眠り続ける都子さんに対して、滾々と沸き起こる耐え難い想いの方が気にかかった。想いなんて綺麗な言い方をすれば格好いいが、単に僕は無防備に眠る都子さんに対して欲情してしまったのだ。だって、仕方ないじゃないか、可愛らしい女の子が、そのピンク色で柔らかそうな唇を半開きにして眠っているのだ。すやすやと、小さな寝息と共に、微かにその絹のように細い黒髪を揺らめかせるのだ。そんな姿を見て、健全な男の子がまともな心理状態で居られるわけがないじゃないか。透明人間でなくったって、きっと僕のようなそわそわした気分になるさ。
 うん、透明人間? 透明人間だって? 僕の中に再びあのどす黒く後ろめたい感情が、もやの様によみがえってくるのが分かった。
 悪戯しちまえよ。こんなにぐっすり眠っているんだ、何したってきっとばれやしないさ。俺は知っているんだぞ。お前、透明人間になる前から、櫛田都子のことを少しばかり意識してたんだろう。
 確かに僕は櫛田さんの事を好きだった。別に、僕は彼女と特別親しいわけでもなかったし、彼女が特別綺麗という事でもなかった。確かに櫛田さんは可愛かったが、結局そう思うのは僕の主観でしかないし、どちらかといえば、クラスの多くの男子から櫛田さんの評判はよろしくない。女子からの評価だって散々だったら。話しかけても無視する、勉強できるからって澄ましやがってナマイキ、櫛田さんのクラス内での評価はそんな感じ。彼女は、嫌われ者だった。
 けれど櫛田さんは、そんな周りの言葉など、まったく気にかける素振りを僕達に見せはしなかった。いつだって彼女は毅然としていたし、勇ましかったし、自信に満ち溢れていた。そんな彼女に僕はあこがれたのだ。僕にはない芯の強さに憧れたのだ。男の子の僕が女の子の櫛田さんに憧れるなんて、ちょっとおかしな話だけれど。
 渇いた喉が空気を飲み込む。耳元から喉奥へと、鈍い音が落ちていくようにして鳴る。僕は櫛田さんの色白い首を眺めていた。気づくとなぜかそこを見ていたのだ。別に僕は首フェチという特殊な性癖を持っているわけではない。しかしながら、彼女の首から鎖骨にかけての流れるような線を見ていると、僕は言い難い劣情を抑えることができなくなった。彼女の、そのなまめかしく骨が浮き上がった箇所は、触ればいったいどんな感触がするのだろうか。そして、僕に触れられると彼女は、いったいどんな反応をするのだろうか。
 少しばかり一般的な欲求ではないなとは我ながら思う。普通の男の子ならば、真っ先に胸とかを触ろうとするだろうに、どうしてそんな箇所を触りたくなるのだろうか。自分でも説明がつかない。しかしながら、触りたいものは仕方がなかったし、見つめれば見つめるほど拍車がかかっていく、その想いを止めるのは難しかった。
 気がつくと、僕の手は彼女の顔の前に翳されていた。どうしようというのだろうか。決まっている、彼女のその柔らかそうな白い首元に触れるのだ。触れてどうなるものでもないのに、それでも触れなくては気がすまない。僕の精神的昂ぶりは最高潮に達し、荒くなる息を整えることも最早不可能。動悸と息遣いがシンクロして、僕の中で欲求を増幅して震え始める。精神の異常を計るメーターの針は、今にも振り切れそう。僕は、どうにかなってしまいそうだ。
 どうにかなってしまえよ。僕の中の何者かがそっと僕を押した。
 手は、枝を離れて落下を始めた木の葉の様に、細やかに揺れて彼女の首元へと落ちていく。10センチ、5センチ、1センチ。その間隔が狭まるにつれて、僕の視界もまた明滅の間隔を狭めていく。クロック数の増加と共に、精神と時間の関係が崩れ始める。一秒がとても長く感じられる。処理しきれなくなった感情がぶわっと僕の背後に広がって、何者かと共に僕の手を押した。0.5センチ。
 人の温もりが僕の手の中にあった。櫛田さんの滑らかな肌の感覚と硬い鎖骨の感覚があった。それだけ。そこから更に抑えがたい情動でもって、少年漫画やライトノベルじゃちょっと表現できない状況に突入するのかとも思ったが、そんな気配は微塵もなかった。むしろ、僕の中の負の感情が全て霧散したかのような、そんな清清しい感覚の方が強かった。達成感や征服感のそれとも違う、いうなれば安堵感のようなものにぼんやりと包まれた僕は、女性に触れるというのはこんなものなのだろうかと、拍子抜けた事をふと思った。
 その時だ、もそりと櫛田さんがその三つ編みを捩じらせた。
 まずい、優しく触ったつもりだったが、どうやら起こしてしまったみたいだ。僕は咄嗟に彼女の鎖骨から手を離し後ろに飛びのく。
「……東くん」
「えっ」
 櫛田さんと目が合った。櫛田さんが僕を見つめ返した。櫛田さんが僕の名前を呼んだ。彼女に名前を呼ばれるだなんて、認識されているだなんて、なんて嬉しいんだろう。いや、そうではない。
「東くん、どうしたのこんな所で。貴方って、吹奏楽部の部員だったかしら。違うわよね、なに、音楽室に何か用でもあったの」
「いや、うん。用は特になかったんだけれど。音楽室の扉が開いていて、中で櫛田さんが寝てたから、その、どうしたのかな、って」
 そうじゃない、そうじゃないだろう、僕。何を普通に返答しているんだ、何を普通に櫛田さんと会話しているんだ、本当に彼女と話さなければいけないことは、そんなことじゃないだろう。
 今までは少し寝ぼけていたのか、どことなく緩んでいた櫛田さんの顔が、徐々に引き締まってきた。つりあがる眉、睨みつけるような視線、そして、思わず寒気がするほどに凛々しい表情。どうやら僕のクラスメイト、櫛田都子さんは、完全に目を覚ましたらしい。
「……そっか、私のこと心配してくれたのね。ありがとう」
「いや、そんな。別に僕は、お礼を言われるようなことなんて、何もしてないし。というか、櫛田さん、いったいここで何してたの」
 そうでもない。どうして僕の口からは、こんなどうしようもないその場つなぎの言葉しか出てこないんだろうか。女の子とろくに話したことがないから。憧れの都子さんと話しているから。そうじゃない、僕には根本的に根性が足りていないのだ。大切な場面で、大切な部分を見ようとしない。臆病者なのだ、大衆その一なのだ。
 もう駄目だ、こんな不毛な会話に意味はない。彼女にどう思われても良いじゃないか、僕は、僕自身の秘密について彼女に話さなければならない。僕は透明人間なんだ。なのに櫛田さん、なんで、君には僕が見えるんだ。どうして君は僕と普通に会話できるんだい。
 ちょっとね、音楽室で色々と確かめたいことが合ったのよ。と、ベートーベンやバッハなんて言う偉人達が並ぶ天井際を見上げながら、櫛田さんは悲しそうに言った。なんで彼女が悲しそうなのか、僕にはよく分からなかったし、透明人間になってしまったことをどう説明しようかと知恵を絞っている僕に、考える余裕はなかった。
「く、くし、櫛田さん。あっ、あ、あ、あのね、僕はね……」
 なにかしらと、櫛田さんがこちらを向く。その、人の顔面を射抜くような瞳に真っ直ぐ見つめられたら、男ならきっと誰だって平常心ではいられない。僕の心はますます跳ね上がり、ますます混迷を極めていく。喉奥まで上がってきていた言葉が唾液と共に落ちる。
 櫛田さんに聞くべきことは決まっていた。僕が言うべき台詞も決まっていた。しかし、僕の度胸だけが決まっていなかった。情けない、自分の意思の薄弱さが恨めしい。僕も、櫛田さんの様に意思が強かったならば、彼女の様に毅然としていたならば、こんな台詞の一つを言うのに、ここまで苦しむことはないのだろうか。
「透明人間って、みんな、言ってるわよね。誰がやろうって言い出したのか知らないけれど、陰湿な話、だって東くんずっと教室に居たじゃない。先生まで一緒になって、馬鹿馬鹿しいったらないわ」
 用意した台詞が完全に喉の奥に引っ込んだ。透明人間って、みんな、言ってるわよね。東くん、ずっと教室に居たじゃない。まるで見えているような言い草だ。やはり、櫛田さんには僕の姿が見えているのだ。間違いない、理由は分からないが、彼女には透明人間になったはずの僕の姿が見えている。彼女は、僕を、認識している。
「ねぇ、東くん。もし、誰かに虐められているなら、私が力になるわよ。私、女の子だけれども口は立つわ。知恵だって多少あるわ」
「あ、ありがとう、櫛田さん。で、でも、そのなんと言ったら良いんだろう。僕のこれは、ほ、本当に透明人間になっていて、その皆が見えないって言うのは、あながち嘘じゃないって言うか……」
 櫛田さんに伝えるべく頭のメモ書きにしたためていた台詞は、驚いた表紙に喉奥のシュレッダーに突っ込まれて、粉々になった。そんな粉々になった言葉を拾い集めて、僕はなんとか拙い返事を彼女へと返した。えっ、と叫んで目を細めると、櫛田さんは驚きの視線を僕へと向けた。何を言っているのかわからない、と、暗に視線は僕に語りかけてくる。さもありなん、頭が悪いと思われてもそれは仕方ない。だから僕は言うのを戸惑い、口に出せなかったのだ。
「どういう、こと? それは、なにかの隠喩とかかな?」
 それでも、櫛田さんは僕を敬遠することはなかった。そう言った彼女の瞳には、確かに僕に対する多くの困惑が渦巻いていた。しかし、そこに、僕に対する怯えはなかった。その視線は、純粋に僕の身を案じてくれている者の眼だった。彼女の中にある正義感がそうさせるのか、それとも、僕に対して何かしらの特別な感情を抱いてくれているのか。なんにせよ、透明人間となり、理解者の少ない僕にとって、彼女の言葉と真摯な眼差しは、深く心に沁みた。
 そうして、僕は櫛田さんに、僕が突然にして透明人間になってしまった経緯を話した。まずは、僕に隠喩だなんて高等なテクニックを使えないという所から入り。今朝登校すると自分が透明になっていたこと。部屋にあるものを鳴らすことで、母親になんとか自分の存在を認識してもらったこと。病院に救急車で運ばれ、診察した医師に、分からないと匙を投げられたことを、順を追って説明した。
 彼女は僕の言葉に真剣に耳を傾けてくれた。なんで学校に入ろうと思ったのなんて、僕でもよく分からない気持ちの部分を鋭く指摘するくらいに、彼女は僕の話をよく聞いて、よく分析してくれた。本当に、なんで学校に入ろうと思ったのか、今でも分からない。
 結果から言えば、彼女は僕が透明人間であることを理解してくれた。理解すると共に、嬉しいかな透明人間になってしまった原因を究明する事に、力を貸してくれると約束してくれた。学年でも一・二を争う秀才である彼女が、力になってくれるのは、とても頼もしかったし、個人的に彼女と少し親しくなれたようで嬉しかった。
「けど、櫛田さん。なんで僕なんかの為にそんな事をしてくれるんだい。確かに、僕達はクラスメイトだけれど、別にそれだけで友達という訳でもないし、まして、だ、男女の仲って訳でも……」
「やだもう。男女の仲だなんて、やらしい言い方しないでよ。周りに人が居たら誤解されるでしょう。東くん、そんな人畜無害な顔しといて、そういう言葉もちゃんと知ってるのね。少し、びっくり」
「じ、人畜無害。そっ、そうかな、僕、そんな顔してるのかな」
「してる、してる、草食動物みたいな顔よ。しかも、可愛らしい感じの。カパピとか野うさぎ、ロバや羊みたいな感じね。間違ってもバッファローとかサイ、ゴリラって感じじゃないわ。だってほら、虐めないでオーラみたいなのが出てるもん、駄目よそんなの出してたら。自分から虐めてください、って言ってるようなものよ」
 そうか、僕の顔からそんなオーラが出ていたのか。普段から、鏡で自分の顔をよく見るなんてないので、全然気づかなかった。今日にでも、顔を洗うときに確認してみよう。あっ、透明人間って自分の姿は見えるのかな。見えなかったら、どうしよう……。まぁ、暫くは櫛田さん以外の人に見られることはないから、いいか、な。
「なんて、上手いことはぐらかされないよ。ねぇ、櫛田さんどうして僕なんかを助けてくれるの。もしかして、何か目的でもあるの」
 あら、覚えていたのという感じに、櫛田さんはその視線を横にスライドさせた。そうね、と、小さく呟くと、彼女はなにやら考え込み始めた。そんなに考え込むということは、やはり、何か裏があるのだろうか。あてずっぽうに言ってみたが、もしかして、僕、なにか壮大な事件や物語に巻き込まれている最中だったりするのかな。
「じゃぁ、東くんさ。もしもの話だよ。もし、道で重そうな荷物を背負ったおばあさんに出会いそうになったら、君はどうする」
「えっ、それは。うぅん、荷物の大きさにもよるだろうけど、代わりに荷物を持つかなぁ。あ、けど、お節介だって怒られるかも」
 ちがう、ちがう。と、櫛田さんは、その顔の前でメトロノームの様に指を左右に振った。何が違うのと、僕が尋ねるまでもなく、それは『出会った時の話』。今話してるのは、『出会いそうになった時』の話よ、と、呆れたとばかりの様子で彼女は僕に言った。
 『出会った時の話』と、『出会いそうになった時の話』にいったいどんな差があるというのだろうか。櫛田さんほど頭のよくない僕には、今ひとつ彼女の言わんとすることが理解できない。困惑が顔に出ていたのだろうか、僕が櫛田さんに視線を向けると、やれやれしょうがないわねという感じに、彼女は小さなため息を吐いた。
「誰だって、目の前に困っている人を見つけたら、見てみぬ振りはできないでしょう。だったら、入ってこないように意識するしかないじゃない。それでも入ってきたら、諦めもつく、ってことよ」
「……えぇっと、その、つまり。僕が、たまたま櫛田さんの視界に入っていて、更に困っていたから、ってことで良いのかなぁ?」
 もうそれで良いわと、櫛田さんは初めて僕にその笑顔を見せた。


ニ、『見失わない小林冬子。すなわち僕認識、僕マスク加算』


僕のケータイのアドレス帳のか行の項目にアドレスが一つ追加された。何か分かったらすぐに連絡できるようにと、櫛田さんがケータイのメールアドレスを僕に教えてくれたのだ。まさかこんな形で、しかもこんなにあっさりと彼女とお近づきになれるとは思っていなかった僕は、小躍りでもしたい気分だった。今の今まで透明人間になって良かったと思ったことなど一度もなかったが、今回ばかりは素直に、透明人間になってよかったなと思う。
 お互いのケータイを近づけると、赤外線通信でメールアドレスと電話番号を交換する。通信完了の文字が液晶に表示され、空メールがしっかりとお互いに届くことを確認すると、僕はケータイをポケットの中に、櫛田さんは彼女と共に音楽室の床に転がっていたトートバックの中にしまった。
 気がつけば、音楽室はすっかりと暗くなっていた。暗幕をあげれば、鮮やかな紅色に染まった空が見える。外で遊ぶ子供たちに、帰るよう促しているかの如く、カラス達が五月蝿く鳴きながら空を飛んでいる。
「あぁ、いけないもうこんな時間だわ。今日は、昔好きだったドラマの再放送があるのよ。それじゃ、悪いけれど東くん、そろそろ私は帰るわね」
 えっ、とも、あっ、とも僕に言う暇も与えず、櫛田さんはトートバックを肩まで通すと足早に音楽室の出口へと向かう。そして扉の前でふと何か思い出したように立ち止まると、振り返ってじゃあねと彼女は僕に向かって小さく手を振った。僕も思わず手を振った。それで、今日のところはお開き。
 すっかり暗くなって、透明人間でなくっても誰が誰だかわからなくなるような、そんな夜道を歩きながら、僕は携帯の液晶に表示された、櫛田さんのメールアドレスを眺めていた。きっと気持ち悪がられるような笑みを浮かべているように思ったが、透明人間なのでそんなのは関係ないだろう。
 looking.glass.family。彼女のメールアドレスは、実に分かりやすい中学生レベルの単語の羅列でできていた。見るからに賢そうな彼女のことだから、もっと知的なアドレスかと思ったが、意外にもそうではないらしい。まぁ自分の名前と誕生日をミックスした、自己主張の強いメールアドレスを使ってる奴に、そんなことは言われたくないだろうが。しかし、いったいどういう意味なのか。僕の足りていない頭で直訳すると、ガラスの家族を見ている、で良いんだろうか。なんとも意味深なアドレスだ。
 彼女にメールを送ろうか、いやいや用もないのに突然メールを送るのは流石におかしいか、なんて考えているうちに家に着いた。玄関のドアを開けると、入ってすぐの所に母さんが立っていて、あぁおかえり病院から帰ってこないから心配していたんだよと、僕を通して扉の方を見つめながら言った。
 見えない僕を先導するようにして、リビングへと向かう母さん。テーブルの上に置かれている、ラップをかけられた晩御飯をレンジにかけ、マグカップに冷蔵庫でよく冷やした麦茶を注ぐと、僕が座る椅子の前に置いた。
 一つだけ、椅子が後ろに下がっていたから分かったのだろう。すぐにレンジから取り出された晩御飯も僕の前に置かれる。そして、すぐにも母は、病院はどうだっただの、学校はどうするつもりなのかだの、尋ねてきた。
 僕は母の質問に適当に返事をしつつご飯を食べた。僕のおざなりな返答に母は特にこれといって、もっと真剣に事態を捉えろとも、なんでそんなに落ち着いていられるのとも言わなかった。彼女はただ、そう、と僕が箸でつつく皿を見据えて、頷くだけだった。きっと、僕がさびしくないようにと、母は母なりに必死なのだろう。見えないながらも母のそういった心遣いは、正直嬉しかった。本当に、早く透明人間から元に戻らなくては、と強く思う。
 お風呂沸いてるから入りなさい。見えないからって横着しないでちゃんと服は脱ぐのよと、そんな捨て台詞を残して母はリビングから去った。食べ終えた食器を軽く水で流し、食洗器にかけると洗浄のスイッチを押す。カチャカチャと食器が擦れる音がリビングに響く。こうして、普通に物を使うこともできるし、飲み食いだってできるのに、透明ってだけでどうしてこんなにも不便な思いをするのだろうか。愚痴りたくても愚痴を聞いてくれる相手も居ない。しかたなく、僕はそのままお風呂へと向かう。朝、確かに着込んだはずの制服を脱ぐと、僕の体と同じで透明だったそれが、途端に黒く目の前に浮かび上がった。本当に都合の良いもんだよね、透明人間って奴は。
 シャワーで念入りに透明になる液体かはたまた粉をこそぎ落としたつもりだったけれど、バスルームから出てすぐの洗面台に、やはり僕の姿は映らなかった。肩を落としてバスタオルで体を拭くと、僕の体から落ちた水滴が、床ではじけて水玉模様を描く。馬鹿馬鹿しすぎて、なんて理不尽なんだ、と憤慨する気力も僕には残っていない。いいさ、焦らず慎重に行こうと、脱衣籠の中に用意されていたパジャマに袖を通すと、制服を腕に抱えて廊下に出る。二階にある僕の部屋まで廊下を軋ませて歩くと、部屋に入り制服をハンガーに通し壁にかけ、ウォーターベッドに向かいうつ伏せでダイブした。
 僕の形にウォーターベッドが沈んでいくのが分かった。僕は、確かにここに存在している。僕は確かに今、自分の家のベッドの上で眠っているのだ。それは物体に自分の体が触れ、何かしらの反応を得ることで知覚することができた。しかし、それとは別の不安が僕の中に漠然と漂っていた。
 おそらくだが、他人から自分という精神、東隆というパーソナリティを知覚されていない、認識されていないことが不安なのだろう。柄にもなくk、難しい言葉を使ったので、自分でも今ひとつ、言っていることが正しいかどうか分からないが、たぶんそんな感じ。物質的な認知の先にある、人格としての認知。駄目だね、言えば言うほど意味が僕から遠ざかっていく。どうにも、人に物事を伝えるという事に置いて、僕はまだ幼稚園児レベルらしい。
 幼稚園レベルなのだから、もう今日はとっとと寝てしまおう。考えるのはまた明日でも良いのだ。櫛田さんだって協力してくれる、なぁに、時間や僕を取り巻く色々な物事が、きっと良い方向に導いてくれるはずだ。
 僕は右手を頭の方へ突き出して、頭の少し上にあった枕を首元まで引き寄せる。頭をのせると、ひんやりとした感触が心地よい。そして掛け布団を自分の体に巻きつけると、僕は天井を見上げ、そしてそっと瞼を閉じた。地球には悪いけれど、今日は電気はつけっぱなしで寝さしてもらうとしよう。
 ゆっくりと僕は瞳を閉じる。床に入ればすぐに眠れる体質の僕だが、色々とせわしなかった今日ばかりは、少し寝るのに時間がかかりそうだ……。