「居酒屋つぶれかけの開店」


 すみませんね、まだ料理の仕入れがすんでいないんですよ。また後で来て頂けませんか、って、お客さんじゃないですか。確かに四時半という時間は居酒屋に入って酒を飲むには少し早い時分の様に思えたが、それにしたってなにも無碍に追い返そうとすることは無いだろうに。しかもこの板前、今、平然と料理の仕入れと言ってのけた、ちゃんと料理を調理しているならば、調理していないにしてもそこは料理の仕込みと言うのが普通のはずだ。
 俺達が居酒屋つぶれかけにたどり着くと、店の玄関には暖簾がかかっておらず、代わりに木に磨りガラスのはめ込まれた古めかしい引き戸に鍵がかけられていた。開店中とも準備中とも札はかけられておらず、つぶれかけで食べるのを諦めてすごすご帰るには少し癪に感じられた俺は、戸を二・三回ほど叩いて店主の不在を確認した。暫くして磨りガラスに人影が現れると、すぐにガラスが木にはめ込まれた部分が激しく打ち鳴り、目の前の戸が横に開いた。そこに居たのは、昨日よりも幾らか髭が濃くなったように見える板前で、手には競馬新聞、耳にはボールペン、口には紫煙をくゆらせる匂いのきつい煙草、そして顔にはあからさまに七面倒くさそうな表情が浮かんでいた。そして開口一番この言い草である。必ずしも、店を訪れる客が神様ではないにしても、もう少し親しみやすさを持って接しても良いのでは無いだろうか。
 どうしたんですかこんな時分に珍しいですね。いつもの人とは今日は一緒じゃないんですか。あぁ、後ろに居るのは確か味噌が好きな妹さんでしたね、あ、あと昨日の。こんにちはと顎を引き頭を垂れ顔を隠すようにして徳利さんは板前に挨拶をした。ここ何日か続けざまに店を訪れては、何度も顔をあわせているのだ。なにも今更そんなに畏まらなくてもいいだろうに。
 板前からしてみれば、昨日知り合ったばかりの俺と徳利さん、加えて本当にどうやっても接点の無さそうな俺の妹である味噌舐め星人とが、こうして店に来たのが不思議でたまらなかったらしかった。板前はじっとこちらを凝視して、とりわけ徳利さんを強く見つめては、俺たちが連れ立って店にやってきた理由を考え込んでいるようだった。その疑念を氷解させるには、少々ややっこしい話をする必要がある。というか正直、面倒くさい。まぁ細かい詮索はよしてくれよ、それより今から大丈夫かいちょっと急いで腹ごしらえがしたいんだと、俺は話を誤魔化すようにして目の前に立つ板前に言った。
 あっ、はい、どうぞ。断りに玄関まで出てきたくせに、板前は特に嫌がる様子もなく俺たちをすんなりと店の中に入れた。それくらいに彼と俺たちが親しくなれていると言う事だろう。まだほんの数回しか呑みに着ていないのに、今頃コンビニで悪戦苦闘しているであろう店長に、少し悪い気がする。
 すみません、今日は本当にまだ何も仕入れて無くって、ご飯と味噌汁くらいしかお出しできませんが、それでもよろしいですか。元から彼の料理に期待のしていない俺は、あぁ別に腹に入ればなんでも構わないよと彼に言った。私は前に食べたお味噌のお団子が良いです、と味噌舐め星人。私もお味噌汁とご飯でと、おずおずと徳利さんが返事をした。わかりましたと早速調理に入る板前には、どうやら俺の隣に居るもう一人の客は、見えないらしかった。