「味噌舐め星人の十行」


 あまりに長い間、味噌舐め星人がぼんやりと空を見上げているものだから不安になった俺は、尾行を取りやめて彼女の前に出て行き、そんな所で突っ立ってると通行人の邪魔だと言って驚かせてやろうかとよっぽど思った。実際に、塩吹きババアと顔を見合わせた俺は、これはもう駄目だろうと今にも出て行こうとしていたのだ。しかし、その時である。急に何かに気づいたように、味噌舐め星人がぴんとその背筋を伸ばしたかと思うと、空から視線を地面に対して水平に戻し辺りを見回した。それは明らかに何かを探している素振りで、暫くして味噌舐め星人は俺たちに背中を向けると、突然彼女しか知りえない――あるいは彼女すらも知れない何処かへ向かい走り出した。
 学内で走るなよみっともないとぼやきながら、俺は味噌舐め星人を見失わないように、尚且つ彼女に見つからないように注意を払いながら、彼女の後ろを尾行した。話の本質とはまったく関係がなく、実にどうでもいい事だが、この時ほど浮いていて足音の立たない塩吹きババアを、俺が羨ましいと思ったことないだろう。涼しげな表情で俺の後ろを悠々と飛ぶ塩吹きババアは、
「ほれほれ若者、早くせんと嫁殿を見失ってしまうぞ。はよう走らんか」
 と、いつもの調子で俺をからかった。別に俺がわざわざ頑張らなくても、空も飛べて壁もすり抜けられる妖怪の塩吹きババアさんなら、所詮生身の人間である味噌舐め星人を追跡する事なんて、実に造作もないことじゃないんでしょうかねぇ。なんて事を俺が少し思っただけで、勘のいい塩吹きババアはまた失礼な事を考えているなと、俺に突っかかってくる。今は思いのほか足の速い味噌舐め星人を追うだけで精一杯だというのに、勘弁してくれよ。俺は塩吹きババアを無視するようにして、必死に味噌舐め星人の後を追った。 そうして俺たちがたどり着いた先は、先ほど徳利さんが入っていった情報工学科棟と似通った建物だった。銀板に盛り上がった字は、環境化学科と書かれており、微かにだがその入り口からは薬品の臭気が嗅ぎ取れた。そんな場所を、どうして味噌舐め星人が訪れたのかは、隠れて彼女の動向を調べている俺たちが知る術もない。だが、どうにも徳利さんがアパートで言っていた、化学系なら関係あるかもしれないという言葉が引っかかった。もしかすると、味噌舐め星人はこの学部に通っているのかもしれない。はたして環境化学部がいったいどのような活動をしているのかは、大学などまともに行った覚えのない俺にはさっぱり検討がつかなかった。しかし、たいへんな味噌好きである彼女が、この一流の端くれになんとか肩を並べている国立大学に、わざわざ並み居るライバルを押しのけ、受験し、合格し、進学してまで入ろうと思いそうな学科は、環境化学科以外に何も俺には思いつかなかった。
 味噌舐め星人は、まずなんの躊躇いもなく環境化学科棟のドアに手をかけて、それを手前に引いた。しかし、授業途中のためロックがかかっているのか、ガンと大きな音が立ったかと思うと、次の瞬間には味噌舐め星人はすてんと転び、手をかけていた扉の前で尻餅をついていた。はじめてのお使いをする子を見守る母の気持ちで見ていた俺と塩吹き星人は、彼女が子供の様に泣き出すのではないかと心配したが、気丈にも彼女は自力で立ち上がった