「味噌舐め星人の兄の一腹」


 味噌舐め星人を布団の上に転がすと、俺は外に出ていつものように外廊の柵にもたれかかると部屋から持ち出した煙草に火をつけた。久しぶりに煙草が吸いたい気分だった。一口吸った後、ため息と共に口から煙が出た。思い起こせばここ暫く、今までにないくらいせわしない日々が続いているのだ。肉体的にも、精神的にも、くたびれている。硬い肩周りの筋肉だけではなく、俺の中で凝り固まった何かを伸ばすように、口に煙草をくわえると、俺は手を上に挙げて大きく反り返った。天井裏には、こちらを見下ろす白い影。
「お疲れのようじゃのう。さもありなん、あの嫁殿の相手は一筋縄ではいかんだろう。なんと言っても、彼女は味噌を舐める宇宙人であるからのう」
 部屋の壁から頭だけを出した塩吹きババアは、先日の月の様に白く怪しく輝いてニコニコと愉快そうに笑っていた。味噌舐め星人の相手も疲れるが、この人を食って生きる妖怪の相手もそこそこに疲れるのだ。俺は彼女を無視するようにして正面を向き直ると、いつになく暗い夜空を見上げた。夜闇にそれと分かるほど黒雲が立ち込めているのが見える。そう遠くないうちに降り出すことは間違いないだろう。遠く山の峰まで黒く塗りつぶされた空は、明日早朝のバイトを俺に思い起こさせて、ただでさえ感傷的になっている俺を駄目押しの様に陰鬱な気分に落とし込んだ。そうこうしている間に、ぽつりと俺の手の甲に雨粒が落ち、秋の雨独特の冷たい空気が辺りに満ち始めた。
「ふむ、無視するでない若人。さっきから何か悩んでおるようじゃが、ならばなぜワシに相談せん。ワシはお前に警告する為にここに居るのじゃぞ」
 そういえば、そうだったなと、俺は塩吹きババアを見もせずに答えた。しかし、それは彼女に聞いてもどうにもならないことだった。そう、味噌舐め星人をあくまで宇宙人だと言い張る彼女にはできないだろう。記憶の残渣に微かに見出せる彼女の面影を、俺だけではなく俺の妹まで巻き込んだ壮大な記憶の混乱を、妖怪の彼女が、赤の他人の彼女が、解き明かせるとは俺には思えない。まして、塩吹きババアがまた俺に言ったとして、そう言い切る根拠は何処にあるのだろうか。確かに彼女は味噌舐め星人を宇宙人だといい、俺もそれを信じた。けれどもそれは、ミリンちゃんに味噌舐め星人を引き合わせる前の話だし、ミリンちゃんから味噌舐め星人の免許証を受け取る前の話なのだ。突然部屋に現れた訪問者を、光線銃を俺に突きつけた彼女を、不思議な銀色の服を着ていた彼女を、辛い味噌を平然と舐める彼女を、味噌舐め星人と俺は断じたが、はたしてそれは正しかったのか。彼女はそういう格好をして俺を驚かそうとした、俺の記憶にない、もう一人の妹ではないのか。
 ふと、何かが俺の胴体に絡みついた。手なのか、布なのか、なぜか俺には分からなかった。というのも、その何かに絡み疲れた途端、俺の意識は突然に遠のき、気づかぬうちに深い眠りの中へとその半身を浸っていたからだ。その不思議な何かが腕であるにしろ布であるにしろ、確かに言える事は。その何かを俺の胴に絡めた奴が俺の背後にいて、俺の耳元で何かを許すように、
「どうだっていいわ。だってこれなら誰も辛くないもの、ねぇお兄ちゃん」
と囁いたということだけだった。煙草の火が強い雨に晒され燻っている。