「砂糖女史の質問」


 一章分の小説を読み終わると時間は程よく過ぎていた。携帯電話の宇和隅に付いている時計を確認すると、それはちょうど俺がこの店に入った時刻から一時間後を示していた。ふむ、コーヒー一杯でよくここまで粘れたものだ、我ながら自分の神経の図太さというか、図々しさにちょっと感心する。もっとも、眼の前には俺よりも長い時間を紅茶一杯で粘っている女が居たが……。
 相変わらず砂糖女史はいじけたような感じに、ティーカップの中の紅茶をスプーンでかき回していた。俺と話をするきっかけを見つけられないことがよほど残念なのだろうか。なぜそこまでして、赤の他人の俺と話したがるのか、今日ひとつ俺には良く分からない。もっとも俺も俺で、こんな美しい人から声をかけられているのだから、素直に応えてやれば良いだけなのだが。やれやれ、どうにも俺にはツンデレの素養があるらしい。他人から好意を持たれているというのに、好意を向けられているというのに、それに対して素直に反応できない、素直な反応をできない。小学生の男の子かよ、俺は。
 また砂糖女史がこちらを伺った。この店を出てしまえば彼女と再び会うことも無いだろう。流石に最後の最後まで無視してやるのは可哀そうかなと、俺は思った。いや、本当の所は、俺は彼女と話がしてみたかったのだ。少なくとも、彼女は俺の知り合いの誰もが読んでいなかった、俺が薦めても読もうともしなかった「蒲公英掬い」を知っている、そして恐らく読んでいる。
 ミリンちゃんのイベントがもう終わっていないか、正直なところ心配だったが、まぁ、大丈夫だろう。いざとなれば携帯電話で連絡はとれる。少しくらいなら平気だと、俺は砂糖女史が望んでいる事を、叶えてやる事にした。この本が気になるのか、それとも俺が気になるのか。さっきからいったいぜんたいなんなんだよ、何か、アンタの気に障ることでも俺はしたのかい。
 出てきた言葉は最高にぶっきらぼうで、俺は言ってて耐え切れなくなるほど恥かしくなった。加えて、砂糖女史がきょとんとした表情で俺を見てきたものだから、俺はもう辛抱たまらなくなって、ふぃと視線を喫茶店の壁に泳がせた。沈黙が俺たちの間に訪れた。先ほどまでとは違う気まずさを含んだ沈黙が、喫茶店の一角に漂った。勘弁してくれよ、頼むから何か喋ってくれ。彼女を焦らした事に対する報いだろうか、気まずい沈黙は長く長く続いた。
 あ、あぁ、はい、すみません。その本を読んでる方を見るのは初めてだったので。あの、私も、その本は、その……好きなんです、よ。今までの作品の中で、一番、良い出来だと思ってるんです。もっとも、世間ではそれが、一番売れなかったんですけれど……。砂糖女史が言っているのは、きっと佐東が出した本についてのことだろう。確かに、佐東が書いた十冊にも満たない小説の中で、この「蒲公英掬い」が最も良く書けていた、そして最も売れなかった。どうやら、彼女の中にある佐東匡観は俺と近いものであるらしい。
 世間がどう言おうと良いものは良いよ。俺はこの小説凄く面白いと思うし、アンタもそうなんだろう。またしてもぶっきらぼうな言い方だったが、どうやら俺の佐東匡への思いは伝わったらしく、彼女は優しく微笑んでくれた。
 あの、実はその、貴方に一つお聞きしたい事があるんですが……。