「味噌舐め星人と隣人」


 都会である終点に近づくに連れて車内の人口密度も増えてきた。そろそろ立ち乗りの人も出そうだったので、俺は隣の席に置いてあった荷物を床に下ろすと、味噌舐め星人の正面に移動した。あっ、やっぱり景色を見るんですねと味噌舐め星人は俺に言ったが、俺は彼女にも外の景色にも眼もくれず、ただ隙間なくびっしりと埋められた活字の海の中に意識を漂わせていた。
 終点まであと二駅という所で、隣、よろしいですかと、いやに静かな女性の声がした。別に座りたければ座ればよかったので、俺はその声に対して特に返事をしなかったし、する気にもなれなかった。けれども、妙なところで生真面目な味噌舐め星人は、どうしますか、座らせてあげますか、座らせてあげましょうよと、俺に耳打ちをした。そして、どうやら俺の横に立っているその女も、味噌舐め星人と同じように変なところで真面目な奴らしく、一向に――それこそ、俺が許可するまで――席に座ろうとはしなかった。
 やれやれ、どうして俺の周りにやってくる女はこういう気難しい奴等ばかりなのだろうかな。いいよ、座りなよと、俺は女の顔も見ずに言った。女はまた異様にか細い声で、ありがとうございますと言うと、実に静かな動作で味噌舐め星人の横に座った。俺の眼の端に入った彼女の足は、なぜか異様に白かった。それはまるでこの世に生きているものとは思えないほどの、壮絶な白さだった。つまりは、塩吹きババアと良い勝負な白さということだ。
 まぁ、別に味噌舐め星人の隣に誰が座ろうとも俺は一向に構わなかったし、俺たちには一向に関係のないことだし人だった。どうでもいいねと、俺は再び手の中の小説をめくりはじめた。一方で、味噌舐め星人は話し相手が出来たのが嬉しかったのか、やれ、貴方も味噌を食べにお出かけですかとか、貴方は朝になんの味噌汁を飲みましたかだとか、訳の分からない事を彼女に語りかけた。物静かな割りに、案外に彼女はノリが良く、というよりも根が親切なだけなのだろう。そのいやに白い彼女は、いちいち味噌舐め星人の意味不明な会話に付き合って、あれやこれやと消え入りそうな声で返事をした。
 それ、もしかして『蒲公英掬い』じゃないですか。突然、今の今まで味噌舐め星人に話しかけていた、彼女が俺に向かって話しかけてきた。少しだけ、俺はおっと思った。確かに、俺が読んでいる本は『蒲公英掬い』という小説だった。佐東匡という売れない小説家が、あまり世間の評判のよろしくない小説家が、どうしようもないんだけれど主人公の視点で語られる濃密で繊細な心理描写が堪らなく俺には心地よい小説家が、怨嗟と、苦悩と、呪と、悲しみと、ほんの一縷の望みを原稿用にしたためて、この世に送り出された小説だった。けれども、俺は彼女を無視した。佐東匡を知っているからってなんだって言うんだ。別に、俺は佐東匡の事をお前と語りたいとは思っていないし、佐東匡の事を本当に理解できる奴が、俺以外に居るとも思えなかった。
 暫くの間彼女は俺の返事を待っているようだった。俺から何かしらの返事が返ってくるのを待っているようだった。もちろん、俺は彼女に返事を反すつもりはなったし、味噌舐め星人がねぇお姉さんが何か聞いていますよ、答えなくても良いんですかと言ってきても、まったく気にも留めなかった。