「味噌舐め星人の夢幻」


 射精と同時に俺の中に存在している色々な物事が溶けだした。意識、モラル、感覚、酔い、性欲、味噌舐め星人の顔、塩吹きババアの手の感触。俺の視界にあった塩吹きババアは細かい塩の粒子に分解されて、味噌舐め星人はどろりとした茶色い味噌に形を変えた。ありとあらゆる意味を持っていた物事が、意味のない物事に置換されていく。現と夢との境。詳細と抽象の狭間で、俺は味噌舐め星人と塩吹きババアが溶け合って消えるのを見た。俺の左手を、ミリンちゃんが無表情に握り、顔を剥がれた父と母が何もない空間から涙を流していた。混ざり合った味噌舐め星人と塩吹きババアは、土に還り、風になったのだ。それをそこに居る彼らは悲しがっていたし、僕も悲しがっていた。僕はその夢の中で、味噌舐め星人と塩吹きババアの死を悼んでいた。
 忘れてしまったのか、忘れてしまうのか、忘れようとしたのか。風に乗せて塩吹きババアが僕に語りかける。怯える僕は、知らないよ、とその声に答える。知りたいのか、知りたくないのか、知れないのか、知らないのか。僕は、何を知らないっていうんだいと孤独な暗闇の中で叫んだ。途端、きゅるきゅるとビデオテープのような音と共に、僕の時間が巻き戻される。逆回転する走馬灯が僕の記憶を引き戻す。幼かった頃の風景、幼かった頃の日常、幼かった頃の記憶、僕がボクだった頃の世界。お兄ちゃん、と誰かが言った。
 ボクの背中に四頭身のミリンちゃんの手を握りしめて、見知らぬ女の子が立っていた。顔を剥がれ黒く塗りつぶされた髪の長い女の子がそこには立っていた。味噌舐め星人でも塩吹きババアでもないな、とボクは思った。けれど、どこか彼女達に似ているな、とボクは思った。彼女はもう片方の手をボクに差し出して、もう一度、お兄ちゃんと言った。ボクの事を呼んだ。
 ボクはその顔の無い彼女の手を握り返した。そうすることで、ボクは忘れてしまった大切な何かを取り戻せるんじゃ無いだろうかと思ったのだ。けれども、彼女の手を握り返した途端、彼女はまた味噌と塩に分解されて世界の中に溶け込んでしまった。彼女の体は味噌で出来ていて、彼女の魂は塩でできている。彼女の在り処はこの世界のどこにもないのだと思って、ボクは涙を流した。僕がまた涙を流した。俺は溢れる涙を抑えられなかった。
 混沌としていてまるで意味を成さない世界から俺が這い出したのは、翌朝の十時の事だった。曖昧とした意識を無理矢理に醒まして、俺は味噌舐め星人と塩吹きババアがそこに居るのかを確認した。あんな意味不明な夢を見たものだから、あんな怖い夢を見たものだから、俺は彼女達の事が気になった。味噌舐め星人は俺の布団の中には居なかった。塩吹きババアも隣の布団に居なかった。俺の下腹部はいつだったかの時の様に綺麗なままで、それが今までの出来事が全て夢幻だったのではないかと俺の心を不安にさせた。
 あっ、あっ、起きたんですか、起きたんですねと彼女の声が聞こえた。
 朝日に照らされて味噌舐め星人は台所に立っていた。台所に立って、ぐつぐつと何かを煮立てていた。俺は一呼吸置いて、何をしているんだと分かりきっている事を彼女に尋ねた。彼女は恥かしそうにはにかんで、今度は美味く作れましたよと、お椀に味噌汁を掬って布団の中の俺に差し出した。