「店長、夕食に誘う」


 気が付くと味噌舐め星人が俺を揺すっていた。ねえ、はやく起きてください、お腹がすきました、何か作ってくださいと、食い意地の張った味噌舐め星人はふてぶてしく俺に言った。あぁ、今日は俺は夜勤だから、朝の内に寝溜めしとかないと駄目なんだよと俺は言ったのだけれど、彼女はいっこうに俺の事情に理解を示してくれなかった。しかたないので俺はしぶしぶ起きあがると彼女のために味噌汁を作ってやった。油揚げと若布を入れて、スタンダードな味噌汁を俺は味噌舐め星人のためにわざわざ布団から這い出て作ってやった。それなのに、ありがとうもすみませんもなく、彼女はさもそれが出てくるのが当たり前と言う表情で味噌汁を飲みはじめたので、お前は何様のつもりだと俺は彼女に覆い被さるようにして襲い掛かった。と、そこまでが俺の頭の中に残っている記憶で、気が付くと夕闇の差し込む部屋の中で、俺は味噌舐め星人を抱えて布団の上で眠っていた。まさかやってしまったかという俺の心配を他所に、どうやら辺りを見る限り味噌舐め星人との間に過ちはなかったようで、俺の腕の中で彼女は微笑を浮かべて寝息を立てていた。
 せっかく気持ちよく寝ている味噌舐め星人を起すのは悪かったし、バイトの時間までそうそう余裕もなかった。そして、幸か不幸か部屋の隅には、いつの間に現れたのか退屈そうに塩吹きババアが漫画を読んでいた。なので俺は、後は任せた、ついでにもし余裕があったら味噌舐め星人に料理の一つでも教えてやってくれと、ふてくされてる塩吹きババアに頼むと、ジーンズとTシャツの上にパーカーを着込んで、夕闇に染まっている町へと飛び出した。
 かれこれ何年も今のコンビニでアルバイトを続けているので、最初の頃はだるいなと思っていた週に二回の夜勤も、今ではなんとも思わなくなってしまった。繁華街のコンビニや山奥の休憩所代わりのコンビニならいざ知らず、ベットタウン外れにある、俺が働いているこのコンビニは意外と暇だった。あるいはこのコンビニがコンビニとして致命的なだけかもしれないが。とにもかくにも、夜勤に限ったことではないが、最近の俺には鼻歌交じりに仕事をするような余裕があったし、やらなくてはいけない事をそれとなくこなしているうちに自然と仕事上がりの時間になっているという認識だった。
 その日の夜勤も特に何の問題もなく終わろうとしていた。夜勤時の俺の主な仕事である弁当の搬入と陳列も終わり、レジから立ち読みする者のいなくなった雑誌コーナーを一望しつつ一息ついていると、倉庫にいた店長が小声でこそこそと俺を呼んだ。この店には今夜俺と店長しかいないというのに、彼はなぜかこそこそとここにはいない誰かに後ろめたい事でもしているみたいに、俺を倉庫へと招いた。俺は、どうせまたろくでもないことを店長が思いついたのではないかと感じ、素直に倉庫に行きたい気分になれなかった。けれども、もし先日の社員採用に関して本社から何らかの通知が来たのだとしたらまずいなと思い、また、無視したら無視したで後で面倒くさい事になりそうなので、しぶしぶ彼の元へ行く事にした。俺はちゃんと店内に客が誰もいない事を確認して、尚且つ外に人の気配がない事を確認してからカウンターを出て、ドリンクコーナーの奥にある倉庫へと向かった。
 なのに、だ。倉庫に着くなり店長の奴ときたら、よかったら今夜俺の奢りで一杯どう、それとこれももしよかったらなんだけど、君の妹さん――バイトに復帰して暫くした頃、実は同棲してるってのは嘘で、あの日連れてきたのは俺の妹なんですよと店長には説明したのだが――も連れてきなよ、なんて、童貞の癖に柄にもないことを俺に言ったのだった。やれやれと、俺は内心で店長の頭の中の赤道付近並みな陽気さにほとほとあきれかえった。仕事中に、夜勤中に、何を考えているのだこの馬鹿野郎は、この馬鹿店長は、この馬鹿童貞は。やっぱり、この仕事というかこの店と言うかこの店長にそうそうに見切りをつけて、新しい職場を探した方が正解だったのかもしれない。
 しかし、しかしだ、奢りというのは常時金欠気味の俺には充分魅力的だった。抗い難い言葉の魔力がそこにはあった。なので俺は、はぁいいんですか、じゃぁせっかくなのでお言葉に甘えさせてもらって、と満面の笑みで店長の誘いに答えた。散々店長の事を馬鹿馬鹿言っておいてなんだが、それとこれとは話は別だった。あぁそうだ、ついでだから俺の姉貴も連れてきても良いですかと尋ねると、君って奴はいったいどれだけフラグをたててくれるんだと、意味不明なことを大声で店長は叫んだ。その叫び声とほぼ同時に陽気な入店音が鳴ったので、俺は陽気な脳味噌をしている店長を倉庫に置いてきぼりにして、残り少ないコンビニでの仕事に戻ることにした。
「ほぅ、上司の奢りで外食とな。いやはや、良い上司を持ったな若者。今の職場を大切にするといいぞ。今のご時世、そういう恵まれた職場というのはなかなかないからの。いや、ほんに良い所で働いておる、羨ましい」
 帰ってきて事情を話した俺に、塩吹きババアは実に適当極まりないことを言ってくれた。今の職場が恵まれているだなんて、そんな認識は今の俺には逆立ちをしてもバク転をしても水魚のポーズをとってもできないだろう。しかしまぁ、今から奢ってもらう相手のことを奢っていただく相手に悪し様に言うわけにもいかず、俺はまぁなと自分の正直な心境に嘘をついた。それで、お前は行くのか行かないのか、つっても当然来るよなあつかましいお前のことだから。俺は塩吹きババアにちょっといやみったらしく聞いてみた。塩吹きババアのことだから、きっとまた、あたり前じゃろう、まったくこれだから若者は云々と、俺を小馬鹿にした感じに切り返してくると思ったのだ。しかし、珍しい事に塩吹きババアは残念そうに俯いて、小さく首を横に振った。
「せっかくだがのう、お前の上司殿にワシが見えるかわからんで、今回はちょいと遠慮させてもらうとするよ。まぁ、せっかくなので憑いてはいくがね」
 夜中でも昼間でもくっきりはっきり俺の眼に映る妖怪塩吹きババアは、どうやら人によっては見えないらしい。そんな馬鹿なと、俺は思った。味噌舐め星人と俺にはこんなに自然に見えているというのに、他の人に見えないなんてことがあるだろうか。俺はちょっと納得ができなくて釈然としない気分になった。が、確かに彼女は確かに妖怪だったし、味噌舐め星人が世間的に俺の妹になっている事を考えれば、そういう風なこともあるかもしれない。
 ふと味噌舐め星人がやけに上機嫌な顔で近づいてきて、おもむろに俺にお碗を差し出した。お碗の中にはやけに茶色い液体が満ちている。飲むと、それは味噌をお湯で溶いただけの、濃縮還元100%味噌スープだった。