ベイビーズ読了

 最後はなんちゅうか拍子抜け。もっとこう、すんなりと分かりやすい形で何かを提示してくれるのかと思ったのだけれども、うーむ、いや単に私の頭が悪いだけか。とりあえず、ちょろちょろ考えましょう。
 そんでもってとりあえず言っときたいことは、作者が作品で述べた破壊衝動について。これはその後書きであーだこーだと書いてあることを一字一句書き手の心象を考えつつ考えるよりも、もっと単純にそれでいて理解する方法がある。
 つうかもう感じてるんじゃないのあの糞長ったらしくてやたら社会的で完璧に見えるあの後書きをウザイと思ってかなぐり捨てて力の限り罵倒してしまいたくなる衝動を。つまりこれこそがこの作品の中に潜んでいる破壊の正体であって、破壊するために物を作る・積み上げるとは、こうして今反抗心を芽生えさせて文章を書いているという事実によって証明されているのだ。
 キクにその権利が与えられているとかそういうのは、つまり我々若者には、何かこの世の抑圧にあえいでいる子供達には破壊する権利が与えられている。と、思わせる所にあるのだ。ある種の若者はたいていそんなものに突き動かされて、今で言う厨二病であるだとか古く言う反抗期になるのだと思う。
 そしてハジが求めた歌とはすなわち、歌う理由と述懐によって明示された、生きていて言いといわれる場所への妄執であり。それは破壊活動とともに私達若者がこの社会に対して漠然と感じる不安なのである。抑圧にあえぎココロの折れた人間が求める安らぎの象徴であり、それを求めることもまた破壊衝動と同じで意味の無いことなのだ。
 そして、そういう目で見た場合結局の所これは、村上春樹氏が最近どこぞの雑誌に書いた、発言することへの意識ではないが、生きることへの意識みたいなものであって、破壊衝動何かを変革したいという気持ちを人間は持ちながらも、それに対してどの様な姿勢で己を向き合わせていかせるか。つまりは自分の持っているベストポジションと、集団が持っているベストポジションを持ち合わせて、局所解にはまり込まずに最適解に持ち込んでいけるかというカオス的な状況をまざまざと読者に味あわせる、そういう作品なのだ。
 己の持つベクトルを破壊、それを押し殺し生へと向かうベクトルを歌として、二つのベクトルはダチュラニよってハジの中に宿り、このカオス状態が少年の心に初めて宿る。そしてそれは、これから大人になる子供達に向けて、内なる破壊衝動の行くあてを知らずにキクへと進もうとするもの、それを飲み込んで望まれる生を得ようとするハジへと進もうとするものに、そっとそれをつりあわせて生きていくのが大人なのだと語りかける象徴なのだ。少なくとも、私はそういう風に思う。
 以上。ちなみにうちの教官いわくカオスを解くことは無理だと学会で発表されていますねぇ。との事だ。科学的観点で見たときに、人間というものはまさしく無限の苦しみの中を生きており、ある意味で生物の生の意味とはこのカオスを解くことにあるのかもしれない。


 次は筒井康孝「ロートレック荘事件」の予定。


 補足
 キクは最後まで己と他者の最適解を持とうとしなかった。
 心臓の音とは、失って初めて気づくものスイーツ(笑)