「夕闇の少女の恐怖」


 ノルウェイの森を読みふけるうちにすっかりと日は暮れた。この日に限って、俺は例の夕闇の少女の夢を見る事はなく、穏やかな気持ちで読書を続けることができたのだった。どうにもあの夢は精神衛生上よくない。こと、こんな風に俺が何をするでもなく、暇にかまけてどうでも良いことをしていると、それはふっと覆いかぶさるようにやって来るのだ。ただし、周りにミリンちゃんや味噌舐め星人が居る時はなぜだか決まってやってこないのだが。しかし、夢がやって来るか。なんとも意味深な言い方だよ、我ながら。
「お兄ちゃん、ただいまなのです」
 はっきりとした意識を伴って、少女の声を聴いた俺は、なぜだか恐ろしくなって、体を震わせた。しかし、実際に視線を向けてみると、そこに居たのは俺の愛しい本物の妹であるミリンちゃんであり、その後ろに何事かと言う顔をして立っているのは、買い物袋を抱えた味噌舐め星人なのだった。なんだ、思ったよりも帰ってくるの早かったな。隠そうにも隠せず、俺は安堵のため息を吐いた。お兄ちゃん、どうしたんですか、なにか、すごく驚いてたみたいですけど。私たちが帰ってくるのが、そんなに驚くことなのですか。流石は俺の妹だけあって良い勘をしている。しかし、夕闇の少女について彼女に説明するのはなんだか気が引けて、とりわけ、味噌舐め星人にそれを聞かれるのは避けたく思えて、俺は、まぁ、ちょっと色々あるんだよと、言葉を濁した。色々、色々ってなんですか、あっ、もしかして、お兄ちゃん、長いことベットの上に居たから……。邪悪な笑みを浮かべた俺の妹は、口元を手で隠してまぁという顔をした。馬鹿野郎、そんなんじゃないよ。盛りのついた猿じゃないんだ。言い返したかったが、じゃぁ、いったい何をしてたんですかと切り替えされるのが怖くて、俺は雄弁に語るよりも沈黙を選んだ。えっ、えっ、なんのことですか、ベッドの上に長いこと居ると、何か大変なことになるんですか、と、狼狽えるねんねな味噌舐め星人の声が少し煩わしかった。また今度、一度色々と色々を知ってる妹さんに教えてもらえ。
 それより、蕎麦は買えたのか。ばっちりなのですと、ミリンちゃんは俺にカップ蕎麦の入ったスーパーの袋を見せた。一、二、三……、四? おいおい、ミリンちゃん、そばが一つ多いんじゃないか。どうしたんだこれ。お兄ちゃんは男の子ですから、きっと二つくらい食べるだろうかと思って、それで買ってきたのですが、まずかったですか。まずいってことはない。俺はどちらかと言えば蕎麦は好きな方だったし、食欲に関してはまだまだ若い者には負けていないつもりだった。ただ、まぁ、我が家のお財布事情的に、素直に喜ぶには、少し勇気がいるのもまた事実ではあった。まぁいい、いざと言う時の非常食ということにしておけば問題ないだろう。俺は、少し不安そうにこちらの顔色を伺うミリンちゃんに、仕方ないなというニュアンスの表情をしてみせた。安心したミリンちゃんが微笑む。なんだろうか、こういうやり取りが最近は随分と増えてきたような気がする。昔も、そう、ミリンちゃんが、幼稚園に入ったくらいの頃に、こんなやり取りを多くしていた気がするが。妙な話だな、なんで、幼稚園くらいの頃だったのだろうか。