「砂糖女史の阻喪」


 なるほど、道理で濃い麦色をしていると思ったが、そうかウィスキーだったか。それは一口に飲み干せば、俺のように酒に強いとも弱いとも言えぬような男は、気を失ってしまうだろう。薄めていたって、同じかもしれない。
 ごめんなさいと深々と頭を下げる砂糖女史。お前のおかげで今日の俺の予定は台無しじゃないか、どうしてくれるんだと、頭ごなしに怒ったところで過ぎた時間は戻ってこない。なにより、ちっとも建設的な会話じゃない。
 やってしまったものはやってしまったんだ、今さら謝られたところでどうにもならないよ。まぁ、気にするな、こんな風に人生をかき乱されるのは慣れているからと、俺は慰めなのか、何なのかよく分からない言葉を吐いた。たぶん、まだ頭の中にアルコールが、随分と残っているのだろう。彼女にかけるいい文言が思いつかない。そもそも、俺は彼女を慰めたいのか、貶したいのかすら、よく分からない。ついさっき、下の世話の指示は、考えなくても脊椎反射に出たというのに、人間というのはほとほと不思議な生き物だ。
 あー、あぁ、とりあえずさ、もう一回水を汲んできておくれよ。喋っていたらまたのどが渇いてきたから。はい、と砂糖女史は返事をして部屋から出て行った。どうにも、彼女はこの調子で俺の世話をしてくれるらしい。先ほど立とうと試みたことで、自分の足腰が頼りげない状態になっているのを、俺は把握していた。とても、後数時間で歩けるようになるとは思えない。尚且つ、ここから俺の家の近くにある駅までは、電車で20駅。さらにそこから歩いて帰ることを考えると、あっさりと心は折れた。駄目だ、もう一泊お世話になっていくことにしよう。宿代くらいは、何とか財布の中にある。
 そもそも今日は、俺が仕事中、家で退屈している味噌舐め星人を連れて、出かけるつもりだったのだ。そうだ、味噌舐め星人、彼女はどうしているのだろうか。どれだけ待っても俺が帰ってこなくて、怒っていやしないだろうか。いや、確実に彼女のことだ、きっと怒っている。お兄さん、またどこかで道草くってるんですね、ひどいです、とか。もうお昼になってしまいました、お兄さん、帰って来ません、うそつきです、お出かけしようって約束してたのに、うそつきです。だとか、言っているに違いない。間違いなく。
 かといって、携帯電話を持っていない味噌舐め星人と連絡を取る手段はない。醤油呑み星人に様子を見に行ってもらおうかとも思ったが、彼女の携帯の番号もメールアドレスも、俺は教えてもらっていなかった。ならば、店長はどうだろうか。だめだ、彼に味噌舐め星人の様子を見に行ってくれなどと頼めば、新聞の三面記事をにぎわす事件に発展しないとも限らない。なにより二人とも、この時間帯は仕事中で、コンビニから離れられないはずだ。
 あぁ、俺の連絡帳の中に、味噌舐め星人の様子を見に行くのに適当な奴はいないだろうか。ちょうど暇をしていて、彼女のことを知っていて、尚且つ俺の変わりに相手をしてやって、斜めなご機嫌を水平にしてくれる人物は。
 ふと、ま行で俺の指が止まった。そうだ、あいつならきっと、今頃家で何をするでもなく、犬を枕に眠っているに違いない。お水持ってきましたと、部屋に入ってきた砂糖女史に微笑んで、俺はダイヤルボタンを押下した。