「味噌舐め星人の朦朧」


 居酒屋つぶれかけから駅前に戻り、駅前から銭湯を経由して家へと戻る。味噌舐め星人がはぐれてしまわぬよう、彼女の手を握り緊めて俺は家路を急ぐ。季節柄、まだ六時だというのにあたりは既に真っ暗になっていた。駆け足の為か、身体は自然と熱くなった、黒い空に熱を奪われた大気はたいそう寒く、眼鏡もかけていないのに俺の視界が真っ白に染まる。そんな白い視界に、今宵も月と同じ顔色をした塩吹きババアが踊っている。彼女は俺たちを先導するようにして前を飛び、時々こちらの方を振り向いては何か心配事でもあるのか不安そうに眉をしかめた。星の光が良く輝く夜だった、月の輪郭が美しい夜だった、だから塩吹きババアもまた俺の瞳には美しく映った。
「……若者よ、お主、少々頬が火照っておるようじゃが大丈夫か?」
 今日みたいに寒い夜なら、頬も赤く火照るだろうさ。塩吹きババアにそう言い返した俺は、ふと、自分が今何処に向かって走っているのか、分からなくなった。辺りの景色が徐々に歪に崩れ始め、こちらを伺う塩吹きババアの妖艶な顔と、手から伝わる味噌舐め星人の温もりだけが残される。現から夢へ、夢から現へ、虚から実へ、実から虚へ。世界がその輪郭をうねらせる様を見つめながら、俺は内から湧き出てくる寒気に、この身体の異常が決して酒のせいではないことにやっと気づいた。その気づいた理性すらも、今すぐに消し飛んでしまいそうだったが。とにもかくにも、俺はどうやら悪酔いして体調を崩したのではなく、風邪で体調を崩しているらしかった。
 酒を飲んだことで症状が悪化したのか、それとも元々そういう病気なのか。首と頭の継ぎ目、扁桃腺の辺りを触れてみると、これでもかと硬くなっていた。昔から扁桃腺には何度かかかったことがある。だいたい朝は平熱なのだが、夜になるにつれて徐々に体温が上昇し、寝る前には、頓服なしには居られないほどの高熱に至る。そういう病気なのだ扁桃腺と言う奴は。この腫れ具合、この気だるさ、そしてこの耐え難い熱、まず間違いないだろう。
 大丈夫ですか、お兄さん、顔色悪いですよ。どうしたんですか、えらいんですか、疲れましたか。ねぇ、お兄さん、聞こえてますか。聞こえているよと、俺は味噌舐め星人に返事をしたが、いまや後ろに居る彼女に振り返ることも出来ないほど、俺は疲弊しきっていた。ただ、ひたすらに歩き、自分の家にたどり着かねばいけない。頭の中の片隅に残っていた、店長との約束ばかりが気がかりだ。彼は、俺が居なくても大丈夫だろうか。無理をしてでも出て行ってやるべきなのだろうが、如何せん、もうどうしようもない。
「ほれ、しっかりせんか若者。もう少しでアパートじゃぞ、気を張らんか」
 塩吹きババアの声が聞こえる。その方向に向かって、俺は一心不乱に駆けた。砂利を踏み分ける音が止み、鉄骨が鳴り響く音がして、カチャリと鍵の開く音がした。そして気がつくと目の前には、色あせた畳と丸い卓袱台、部屋の端に二つ布団が積み上げられた俺の部屋が広がっていて、あぁ、なんとかたどり着いたかと、俺はその場に倒れこんだ。お兄さん、お兄さん、こんな所で寝ちゃ駄目ですよ。起きてくださいお兄さん、ちゃんとお布団敷いてで寝ましょう。こんな所で寝たら風邪引きますよ。もう、引いてるよ……。