ソーダに沈んだ僕の世界 その1


 僕は学校に毎朝行く。行く。なぜ行かなければならないのかというとよく分からないのだ。別に一緒に居て楽しい友達はそこに居ないし、勉強を特に楽しいとも思わない。かといって、家に居てゲームばかりしていても、ネットの掲示板でくだらないことを書いていても、別に学校へ行くことと精神的には変わらないから行きたくないとも思わない。
 強いて言うなら、親への義務感だろうか、高い金を払っているのだから、一応学校には行っておいたほうがいい。というところだ。
 けれども、僕は学校に通うことでなんら自分が成長しないであろうことを知っていた。けれども、それが引きこもってどうにかなるものでないことも知っていた。僕は、それをどうにかしたかったけれども、どうにもならなかったし、あるいはどうにもしてこなかったのかもしれない。それは僕が本質的なところで抱え込んでしまった問題だった。かといって、それを障害と世界に通知して優しさを受け取る気持ちには、僕にはどうしてもなれなかったが、どこかでそれを滲み出すことで今まで生きてこれたのかもしれない。
 電車のドアが開いた。夏のじっとりとした熱気と、車内のからっとした冷機が、僕の前で対流を起こした。たぶん。僕はあまり物事を端的に表すことが得意ではない。そしてそれが僕が抱え込んだ本質的な問題だった。
 僕はこの世界に呼びかけることばをどこかにすっかりとおいてきてしまった。母の胎内にか、僕の子供時代にか、それはどこかは分からないのだけれど、もう僕の手には届かない所に追いやられてしまった。そしてそのすっぽりと抜け去ってしまった僕の大切な脳の一部に、僕は何もはめられないままこうして生きている。そうなのだ、気づけば僕はなんらいっさいこの多くの人が生きている世界に対して、声をかけることの出来ない無力な存在になってしまっていた。言うなれば、僕は陸に打ち上げられた魚みたいなものだ。陸の上で、魚はなんら一切世界に干渉する力を失う。あるいは、海に沈んだ人間もそうだ。酸素というものがなければその世界で人間は生きられない。同じように、僕の中で言葉というものが、表現というものが、この世界で生きるために必須である要素が、僕には無かった。あるいは、僕が魚なのか、人間なのか、はたまた世界がなにかの中に沈みこんでいるのか。
 どうせなら、甘いソーダがいい。僕の世界はソーダに沈んだ、沈んでいた。そして、ソーダは僕の肺の中を満たして、僕を殺そうとしていた。甘い甘い、ソーダソーダをいっぱい飲める人間には、なんて素晴らしいんだろう。僕は、ソーダすら満足に飲めないって言うのに。
 今日も暑い。僕はソーダ色をした空を見上げて思った。
 夏休みなのに僕の学校は続いている。僕はあんまり頭が良いほうではないが、あんまり赤点を取って親や先生を心配させたりするほうでもなかった。だから僕は補習のためにわざわざ学校にやってきたわけでもなかったし、かといって部活をするためにわざわわざ夏休みに学校にやってきたわけでもなかった。
 僕は図書館に本を読みに来たのだ。わざわざ、一時間もかけて学校の図書館に。別に僕の住んでいる市に図書館がないわけじゃない、理由なんてなかった。いや、あった。市立図書館のごちゃごちゃした感じがいやだった。図書館なのに、あんなのはちっとも本を読む雰囲気じゃない。僕はムードは大切にするほうだった、本を読むときは静かに机に向かって読むか、もしくは寝転がって本を上に突き出して読むのが、本の正しい読み方だ。蝉や車の音以外に、バックグラウンドミュージックはいらない。ラジオなんてかけたら、僕はすっかりとそっちに気分を持っていかれてしまって、文章の世界に集中できなくなってしまう。なので、喋り声の多い、特に僕と同じくらいの学生が、楽しそうにおしゃべりをしながらノートを書いているような市立図書館なんかには、僕は本を読みに行きたくなかったのだ。
 けれども、そんな僕にとってちょっとはまともに本を読める環境が、今朝から突然になくなってしまったのは、非常に悲しかった。


「改装工事とお盆休みのため、八月十日から十七日までの間、図書館を閉館します……?」
 茶色いガラス張りになっている図書館の扉、そこには図書館にまつわる色々な情報が張り出されているのだが、あまりにごちゃごちゃとしていて、俺はここ最近すっかりとそんな物に気をかけたことが無かった。それこそ、夏休み中の学校に来てのこのこと図書館に入っていつものように村上春樹村上龍遠藤周作かそれとも意表をついて鈴木輝一郎の本でも読もうかと思った矢先、いつもなら明るいはずの図書館が今日はやけに暗くて、扉に手をかけたらしまっていて、なんでだろうと首を傾げるまでだ。
 ため息をついた。まったく、とんだ間抜けだな。これじゃいったい学校に何をしに来たんだか分かったもんじゃない。ちゃんとこういうことは事前に確認しておけ。いや、確認しなくっても、常識的に考えればお盆に学校に出てくること事態がまず間違っている。俺はまたため息をついた。
 さてどうしたものだろうかと俺は思考を切り替えた。ここでこうしていても、図書館の中から誰かがひょっこりとやってくる気配なんてなさそうだった。なさそうも何もまずなかった。そして、俺が行くあてもまた無かった。学校に、図書館以上に意味のある場所があるようには俺には到底思えなかったからだ。
「しかたない、今日はもう家に帰って寝るか」
 俺は図書館の扉にきびすを返して、元来た道を戻ろうかとした。けれども、ふと考え直して時間を見た。
 時刻は、駅に電車が到着した時間をさしていた。まずいな、と俺は思った。これでは、まず今から駅に向かってもこの暑い中を待たされることになるだろう。それよりは、しばらく学校に居たほうが良いだろう。
 だが、しかし、学校に居た所で暇には変わりない。田舎の学校なので、周りには何も遊ぶような所も無い。三十分ほど歩いた所にぽつりとコンビニが一件あるくらいなのだ。そして、校舎の中はクーラーが効いていない廊下だと結構暑いのだ。
 どこか涼しい場所はないかと思いをめぐらせる。とくにこれといってそれっぽい場所は思いあたらなかった。どうしたものだろうかと、とりあえず歩き出した俺は、誰か校内に人が居ないかと探し始めた。人が居る所なら、クーラーが効いていて涼しいはずだと。
 けれども、夏休みでお盆休みな学校には、生徒は愚か教師の一人も居ないのだった。俺は一人、ぶらぶらと校舎の中を随分と長い間彷徨うことになった。普段見ている校舎と違い、人気の無い校舎はどこか不気味な感じがした。それこそ、この真昼間から幽霊と出会ってもおかしくないほどに、各教室に引かれている暗幕によりいっさいの光が入らなくなり電気もつかなくなった校舎は、なにか得体の知れない者が存在しているような雰囲気があった。
 しかたなく、俺は学期中に自分が過ごしている教室に入って椅子に座った。そこでそうして時間を潰すことにした。幸いなことに、電車の中で読む用の本を俺は持ってきていたのだが、不幸なことにその教室の中ではとても本など読めるような気にはなれなかった。なので、俺はぼけーと何をするでもなく教室中を見渡するほかなかった。
 教室はこうしてみてみると案外広かった。あるいは、夏の性で広く見えるのかもしれなかった。電車の線路は夏に膨張し、冬に収縮するのだという。そんな風にして教室も膨張してしまったのではないだろうかとおもったが、流石にそれはないかと頭を振った。振ったときに俺の髪をぬらしていた汗が辺りに散った。これが女の子の汗だったら絵になるだろうななんてくだらないことを考えた。
 ふと、俺は唐突に今座っている机がいったい誰のものか気になった。それはクラスの中で一・二を争う美少女だろうと俺が勝手に思っている川島の席だった。暑い中でも川島の顔かたちは思いだせる。思い出せるが、その美少女的な造形を言葉で表すのには無理があるように俺は思えた。美少女は美少女としか言いようがない、それに美しい美しくないは人の判断基準にもよる、そこを通り越して美少女であることを納得させるのは難しい気がした。なにより、俺が納得できなかった。美少女小説の美少女って、いったい何が美少女なんだい? もし、貴方が美少女小説化で、こうこうこうだから美少女なんだといったとしても、俺はそれに納得が出来ない。それこそ貴方が、お前の言う美少女は間違っているというように、お前が言う美少女が間違っているように思えるのだ。結局、主観に彩られた世界で、共通の価値を掴み取るのは無理なのだと俺は思った。あるいは、そう思わせることが、小説家のお仕事なのかもしれないが、だとしたらそれはなんてくだらないヒトラーなんだろう。すりこみだそんなものはと、俺は美少女小説なんていうのがあまり好きではなかった。なので俺は自分の出来る範囲で川島の美しさを表現するとしよう。まず、川島は髪が長かった、だいたい腰の辺りまで伸びているそれは、色も綺麗だった。烏の濡れ羽色というのだろうか、一年中三百六十五日を通して、彼女の黒い髪は潤い輝き、けっしてくすむことなんて無かった。そして眉が細く、瞳は切れ長だった。どこか冷めたような表情をしている、彼女の表情には歳に似合わずサディスティックさがあった。僕は別にマゾではないが、その顔のつくりにはよくここまでのものを作り上げたものだと素直に感心している。そしてその体は非常にシャープだった、胸が無いのが恐らく彼女の女性としての唯一の弱点になるのではないだろうかと俺は思った。身長もそこそこ高かったが、それは彼女のサディスティックな部分とあいまって、ある種の神聖の様なものを、近づきがたい美しさを強調しているようだった。
 とにかく、俺はそんな美少女の机に座っていた。場違いな場所に座っているという気がした。そして、興奮した。それは何も暑くて気が立ったとかではなく、純粋に俺の性欲が頭をもたげたのだった。今、自分は彼女の机に座っているのだ、そして周りには誰も居ないという状況が、俺の頭の中でいけない想像を加速させたのだ。それこそ、目の前に横に広く広がる穴の中に、俺は自分の息子を突っ込んで自家発電をしようかとおもったくらいにだ。けれども、その穴の中に彼女の私物なんかはなにも無かったし、冷静に考えれば新学期には席替えをして彼女は違う机に座ることになるのだから、そんなことをするのは無意味に思えた。
 けれども、よく探せば見つかるもので。俺は、机の中に一本の長い髪の毛が入っていたのを見つけてしまった。それは俺の頭のてっぺんからちょうど股間の辺りまでの長さがあった。それは川島の髪の毛に間違いないように思えた。十回は巻きつけることはできるだろうとお思った俺は、すぐにそれを持って近くにあったトイレに駆け込んだのだった。誰にも居ないというのに、自然と尿意を催したような振りをして。