岡目八目


 昔々、『岡目八目』というそれは偉いお坊さんが……。って出だしで語りだしたら、いったい何人が信じるやら。信じる信じないとは別として、言葉自体は耳にしますが岡目八目の意味って、皆さん知ってますか?
 またを『傍目八目』ともいい、傍で見ている人間は実際に碁を指している人間よりも、よく物が見える(具体的に八目・八手先まで)って意味だそうです。私も最近小説のネタ調べてて、何気なく知りました。
 で、それがいったいぜんたいどうしたんだと言うと、人生この岡目八目に尽きるのではないかと、最近は思うわけです。


 人が難渋している仕事を、ちょいちょいとこなせてしまうのは岡目八目。


 経験したことは無いですか、人の仕事を見ていて『こいつは何をこんな簡単なことで悩んでいるんだ』と。それで実際に手を動かしてみると、難儀していた仕事がちょいちょいちょいと片付いてしまう……。
 けど、それって、自分がその人よりもよくできるわけでもないし、難儀している彼が決して劣った人間でもないんですよ。自分も他人もただその時岡目八目なだけなんです。


 ですから、教えるからといって高慢になることもないし、教えられるからといって卑屈になることもないのです。だって、ちょっと人の話を聞くだけで、今まで何をどうしていいかさっぱり分からなかったことが、ぱっと開けてくるのならそれに越したことは無いでしょう?
 もちろん、今まで自分が一生懸命やってきたことを、他人に弄られるのはためらわれるかも知れません。けどまぁ、その時まで本当に一生懸命やってきたのだったら、そのくらいのボーナス貰っても良いんじゃないでしょうか。なにより、ぱっと開くきっかけになったとしても、それまでもその先を作っていくのは、閃いた彼ではなくほかならぬ自分であることを忘れてはいけません。


 ですから、全ては岡目八目。私も彼も同じ程度で、その時その時で居る場所が違うと考えるのです。そうすれば、割りにすんなりと人の言葉というものは受け入れられるんじゃないでしょうか。そうして、そういう事を指して、人間が素直であるだとか、注意されなくなったら終わりという言葉があるのではないかと、最近私は思うのです。
  

 もちろん、岡目八目が分かる為の最低限のルールは覚えないといけないかもしれませんが。それでも、人に気軽にアドバイスができる、されるという環境を作っていくことは、きっと人生において悪くは無い作用をもたらしてくれるんじゃないかと思いますよ。


 まぁ、自分ができてるかというとまずできてないんですけどね。ぼちぼち、がんばってみます。